第1話「死にたくない」
どくどくと規則的に、小さく揺れていた。
なんだろう? と目を開く。
水の中にいた。
焦る。焦った勢いで口が開いた。水が流れ込んでくる。
苦しい。くるし――くない。一瞬苦しいと感じたのは思い込みだった。
呼吸はできていないが、不思議と心地よかった。
周りを軽く見渡す。
どうやら球状のものに囚われているらしい。状況が分からなかった。過去に何があったかを思い出そうとする。
何も思い出せなかった。自分が誰なのか、何をしていたのか。
あるのは知識だけだ。
地球。特に日本に関する知識が豊富だった。どんな立地で、どんな文化で。
記憶はないが、自分は日本に住んでいたんじゃないか。
俺、と。気づけばそう思考していた。前世は男だろう。
できるのはそんな推測だけだった。何の役にも立たなかった。
ふと自分の手に目をやる。
ちゃんと人間の腕だった。少し安心した。水中で呼吸ができてしまっていたから、人間以外の可能性もあると考えていたのだ。
そう思ったのも束の間。
驚愕した。腕がぷにぷにしていた。子供だった。いや、赤ん坊だった。
手足は全部、赤ん坊のそれだった。
おかしい。
記憶はなくとも知識でわかる。幼児はこんなに思考しない。自意識があることがおかしかった。
球状のガラスのような膜越しに、うっすらと外が見える。
ここは狭い部屋のようだった。扉が見える。見渡す限り、その扉以外には何もない。
明らかに、普通ではない状況だ。
水の中に囚われる幼児。呼吸はできている。
意識ははっきりしていて、記憶はないが知識はある。
考えても何も分からない。
とりあえず、外に出てみようか? 内外を隔てる膜にたどたどしく泳いで近づいてみる。触ると薄くはあるがかなり固かった。突いてみても、びくともしない。
そもそも、外に出て大丈夫なのだろうか。
身体は幼児だ。泳げたからハイハイはできるかもしれないけど、それ以上の行動は無理だろう。
ここでは呼吸ができているが、外に出たら呼吸できないかもしれない。
この膜のようなものを突き破って、その破片でも身体に刺されば、そのまま命を落とす可能性もある。
なにせ、近くに大人はいないのだ。
そう考えると安易な行動は危険が過ぎる。
まあ実際は、そんなことを考えても意味がないのかもしれない。大人の力があってもこの膜がそう簡単に破れるとは思えなかった。
どうしよう、と再度思考を巡らせようとしたとき、急に眠気が来た。
ここで寝て、次起きられる保証もなかった。だから抗おうとしたが、抗えない。
思考が鈍っていく。
――起きられなかったらその時はその時か。
これで寝たままになってしまったら死ぬと同義なのかな。
死ぬってどんな感覚なんだろう。
◇
黒い天井が見えた。
身体が動かない。視界がぼやける。はっきりと目が見えない。
どうやら仰向けに倒れているようだ。手足の感覚はあるが、鈍い。
「お前が……いなければッ!」
人が見えた。
見下ろされていた。金髪、ウェーブがかった髪型の青年。目はきれいな翡翠の色をしていた。
その青年の顔は、血塗れていた。
よくよく見れば、手足もボロボロだ。
鎧のようなものを着ていた。鎧? 仮装か? などという軽い考えはすぐに消え失せた。青年は右手に、抜き身の剣を握りしめていた。その切っ先が、俺の胸に突き立てられている。
青年は憎悪を込めた瞳で俺の目を覗き込むと、倒れている俺のすぐ横に、片膝を突く形で腰を落とした。
「これで……終わりだ……」
そういうと青年は手にぐっと力を込める。
――やめろ!
殺そうとしている?
殺されるのか。嫌だ、死にたくない。どうしてこんなことをする? 俺は何もしていない。記憶がない。記憶が無くなる前、何かしたのか? 殺されるほどのことなのか?
ゆっくりと、剣が肉を裂いて押し込まれる。
赤。鮮血が噴き出す。熱い。痛くはない。怖い。身体が動かない。手足の感覚がなくなった。胸がはねた。口から血が止まらなくなった。呼吸ができない。息を吸おうとすると血が喉を塞いだ。苦しい。酸欠だった。
ただひたすらに怖かった。
動けない状態で剣を突き立てられる。命が終わる。その恐怖だけが感情を支配していた。
やがて、熱さを感じなくなった。
感覚がすべてなくなる。身体が動かない。指先すらピクリとも動かない。
死にたくない。そんな思考も消えた。
すぐそこに、死は近づいていた。
◇
「がはッ!!」
目が覚めた。
口から出た気泡で大きく水が揺れる。窒息はしなかった。呼吸はできた。肺に水が入って苦しくなることもない。
俺は死んだ。
確かに死んだはずだ。そう思い胸元を確認する。傷はなかった。生きていた。殺されていなかった。
そこで違和感があった。
服を着ていた。胸元が布類で隠れていた。首を振ったとき、肩ほどの長さの髪が視界をかすめた。おかしい。さっきまで、髪は視界に入るほど長くなかった。
手足にも違和感がある。
手を確認する。大きくなっていた。腕、足も確認。少年と呼べるぐらいに成長していた。赤ん坊のものではなくなっていた。今なら立てるし、動けるだろう。
すべてが狂っていた。
起きたら赤ん坊で、思考することもできるし知識もある。
急に眠気が来たと思って眠りに落ちると、到底、ただの夢とは思えないようなリアリティをもって殺された。そして、起きたら身体が急激に成長していた。
見える光景は眠る前と一切変わっていない。
どのくらい時間がたったんだろうか。まるで、これがほんの数時間の出来事のような気がして薄気味悪かった。
確かに、寝ている間に俺は死んだ。
その光景は今の知識では説明できないものだった。
剣、鎧。そして翡翠の目の青年。憎悪に歪んだ顔。
あの光景は、俺の記憶なのではないか?
そう紐づけるまで大して時間はかからなかった。記憶を失う前、俺は何をしていた? 考えても、何も思い出せない。
焦りがやってくる。
ここが異世界の可能性がある。少なくとも今の地球で、剣と鎧で人を殺すなんてこと、万が一にも起きない。
だが、俺には異世界の知識は一切ない。俺は異世界なんて知らない。俺は異世界転生なんて経験したことがないはずなんだ。なのになぜ、異世界で殺される記憶がフラッシュバックする?
これが本当に記憶なのか、それともただの夢なのか。はたまた未来予知なのか。
どれだけ考えても結論はでない。記憶の欠片すら浮かび上がってこない。
ただ一つだけ、切実に思ったのは死にたくない、ということだけ。
ふと膜に手を触れる。
ヒビが入った。驚いた。先ほどまでは触れてもびくともしなかった。それが、触れただけで崩壊した。身体が成長しているとはいえ、ただの少年であるにも関わらず。
ヒビが広がっていく。水圧に耐えきれない。
――決壊した。
膜がはじけ飛び、水が一気に外へと吐き出される。
呼吸。大丈夫、問題ない。外でも問題なく呼吸はできた。
球のサイズはそこまで大きくない。
部屋が冠水することはなかった。それどころか、水はたちまち光となって消えてしまった。それはガラス片も同じだった。ほどなく、地面に投げ出されたガラス片は光となって消滅した。
脳が理解を拒んでいた。
ガラスが消えたのも、なぜか水の中で呼吸できたのも、この謎の部屋も、自分の知識では説明がつかない。現実で起こり得ないことだ。
ここは異世界だ。
それは間違いなかった。
異世界の知識はない。それでも、異世界で殺された光景が脳にこびりついて離れない。はたしてその光景は俺の過去のものなのか。未来のものなのか。それとも本当に、何の関係もないただの夢なのか。
ここが異世界であるならば。
あの光景の中で俺を刺し殺した人物も、もしかしたらこの世界にいるんじゃないか?
あの青年はとてつもない憎悪を俺に抱えている気配があった。今の状態の俺を探し出して、また殺しに来る可能性はないのか?
悪い方向にばかり思考が転がっていく。
ただ、考えているうちに一つだけ確信したことがあった。
「――記憶を、取り戻さないと」
球体から部屋に降りる。
簡素な部屋だった。黒い壁に扉が一つ。机の一つもない。特に広くもなかった。
風は吹いてないし暑くも寒くもない。窓が一つもないのは少し不気味だった。
どうやら目の前の扉を開けるしか進む道は無いらしい。
死にたくなかった。おそらく転生していることからも一度は死んでいるのだろうが、何の抵抗も無しにもう一度死んでやるつもりは毛頭なかった。
死なないために、記憶を取り戻す必要がある。
あの光景が何だったのか。はっきりさせて、対処する必要がある。もしあの夢が予知夢だったとしても、その未来までに力をつけなければならない。
この部屋が安全だという保証は一切ない。
あの青年がここを突き止め、いつ俺を殺しに来てもおかしくはない。
進まない選択肢はなかった。
意を決して、扉の取っ手に手をかける。
木の匂いが鼻を突いた。
その先は、外だった。目に入るところで人工物はない。鬱蒼とした森が広がっている。
外に出ようとしたところで気づく。
足元が浮いている。扉は地面と接していなかった。飛び降りられない高さではなかったが、扉が宙に浮いていた。
森の奥から、何かのけたたましい咆哮が響き渡る。
それでも後ろを振り返るつもりはなかった。




