第11話「あなたと共に」 - フィリア視点
初めて先生と出会った場所。
あの水場には先生がいなくなってからも定期的に足を運んでいた。胸元に触れると、小さな盾の形をした木彫りのお守りが手のひらに収まる。これがあれば、恐ろしい魔物が蠢く森の奥でも、迷子にさえならなければ一人で歩くことができた。
村のみんなには黙って出てきている。
いなくなってしまった先生がふらっと帰って来るんじゃないかって待ち望んでいた。それでも、内心はずっとあきらめていたんだと思う。
寂しさをただ、この水場に足を運ぶことで埋めていた。
そんなこと、自分でも分かっていた。
だけど、その日は違った。
静かに湧き出る水の音だけが森に響いていた。
今日もまた同じだろうと、水場を一瞬だけ確認して踵を返すつもりだった。
――水辺の草むらの向こう、水面にうずくまる人影が見えた。
息が止まりそうになる。息が吐き出せない。まさか、本当に。
跳ね上がる心臓が抑えきれずにはじかれたように走り出す。
「……せん、せい……?」
唇が震えていた。
そこに彼はいた。
彼がこちらに顔を向けると、すぐに先生ではないことに気づいた。
血に塗れていたが、その下は少年か少女か、中性的な端正な顔立ちをしている。
肩あたりまで伸びた黒髪が、私を見据えたときにかすかに揺れる。
この見た目には、聞き覚えがあった。
優しそうな朱色の瞳と目が合う。
まるで触れただけで壊れてしまいそうな儚げな様子とその見た目は、先生が教えてくれたおとぎ話の英雄と全く一緒だった。
運命だと思った。
先生と出会った場所で、先生の話してくれたおとぎ話の英雄と出会った。
彼は、きっと先生の代わりに私を迎えに来てくれたんだ。
驚きと警戒に満ちた表情。傷だらけで、ボロボロで、今にも消えてしまいそうなその姿が、あの日の先生と重なった。
まるで、あの日に戻ったかのような錯覚があった。
「ひっ」
ふと彼の腕が目に入った。おびただしい血痕があった。
きっと、先生と同じで酷い怪我をしているんだと思った。
あの日、先生がそうだったように。
首を振って意識を戻す。
手当をしないと。その一心で駆け出す。
彼はそれに驚いたような顔で、一歩後ずさった。
その拒絶に、胸がチクリと痛んだ。先生に拒絶された気がした。
「ち、ちがっ……き、傷が! 手当しないと!!」
「え……?」
彼は拍子抜けしたような顔をした。
身体の力が抜けきったのか、肩がだらんと下がる。
「こんなに血が……あれ? 傷口はどこ……?」
「あ、いや……もう塞がったみたいで。痛くはないから、大丈夫だよ」
「えっ……でも、こんなに真っ赤で……」
何度確かめても傷口が見当たらない。
こんなに大きな傷、そう簡単に塞がるものじゃない。
だけど、先生の魔法ならあるいは。そう思った。
「あ、お顔……! お顔も拭かないと!」
その綺麗な顔にも、ひどく返り血が飛び散っていた。
取り出したハンカチを水に浸して固く絞り、そっとその頬に当てる。
「冷たっ……」
「動いちゃダメです。……ほら、目に入っちゃいますから」
指先に伝わる彼の肌は、凍りつくように冷たかった。
白かったはずの布地が、見る間に赤黒く汚れていく。
それを見た瞬間。
「うっ……」
彼は喉の奥を引き攣らせた。
ただの怪我の痛みじゃない、拒絶反応。
今にも壊れてしまいそうなほど、何か途方もなく恐ろしいものに心を苛まれている。
そんな様子が、痛いほど伝わってきた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……ごめん、大丈夫。ちょっと気分が悪いだけ。それより、ハンカチが……」
「そんなの、後で洗えば平気です! ……どうしてこんな森の奥に? 何があったんですか?」
「……気づいたら、この森にいたんだ。自分が誰なのかも、どこから来たのかも思い出せなくて。そこで狼みたいな魔物に襲われて……必死で倒したんだけど」
息を呑んだ。頭が追い付かなかった。
今、魔物を倒した、と言ったのだ。
この空島に生息する魔物は、基本的に上位から特位に属する魔物だ。A級、S級冒険者がパーティを組んでようやく討伐するような魔物がそこら中に生息している。
だからこそ、私たちは魔除けのお守りを肌身離さずもっているのだ。
それを、一人で倒したと言った。
はっと我に返る。
彼は記憶を失った、と言った。彼の強さはまだ納得ができた。彼がおとぎ話の英雄であるならば、この程度の魔物を倒すことなんて造作もないはずだった。
そう自分に言い聞かせ、会話を続ける。
「記憶がないんですか? お名前も?」
「うん。名前も、何もかも分からない」
彼は、本当に記憶をなくしていた。
◇
「ここがあなたに住んでもらう小屋です! ちょっと狭いけど、先生が使ってた小屋なんですよ」
村外れの小屋へと案内する。
ここは先生が使っていた小屋だった。部屋はずっと私が掃除していたから、すぐに暮らせるくらい綺麗にしてある。
「……あのっ」
「ん、どうしたの?」
「えっと……"あなた"ってすごく呼びづらくて……。何か呼んでほしいお名前とかありますか?」
「あ、そっか。そうだなあ……」
記憶を失ったことにどこか傷つき、焦っているような雰囲気は感じていた。
だからこの話題を口に出していいか一瞬迷ったけれど、結局、これからずっと『あなた』と呼び続けるのは無理だと思った。このままだと、無意識に『先生』や『メア』と口走ってしまいそうだったから。
メアくんが顎に手を当て、うんうんと唸りだした。
「……ダメだ。全然思いつかないや」
呼んでもらう名前を考えているのだろう。だけど、その必要はなかった。
「あの、もしよければ……私がお名前、付けてもいいですか?」
「えっ、フィリアが?」
「はい! あなたに、すっごくぴったりのお名前があるんです!」
思い切って口にしていた。
もしこれで彼が名前を考えたとして、それを受け入れられる気はしていなかった。
私の中で、彼の名前は決まっていた。
「『メア』。私が大好きなおとぎ話の英雄の名前です」
胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
「メア……」
「世界で一番やさしくて、傷だらけでも絶対に誰も見捨てない……私の大好きな英雄なんです。ね、ぴったりですよね?」
自然と力が籠ってしまう。
「メア、か。響きはすごく好きなんだけど、俺にはちょっと大層な名前じゃないかな?」
「そんなことないですよ。一目見たときからピンときました。『これしかない!』って」
そう、確信していた。彼の名前は『メア』以外にありえない。
先生が語ってくれたおとぎ話の英雄と、先生と出会った同じ場所で、また出会った。
運命を感じずにはいられなかった。
彼が本当におとぎ話の英雄その人なのかは分からない。
でも、偶然というにはあまりにもすべてが重なりすぎていた。
◇
それから一週間を、毎日一緒に過ごした。
メアくんは、おとぎ話の『メア』とどこか似ていて、どこか違っていた。
驚くほど早い魔法の習得も、魔法を研究している時の知的な姿も、おとぎ話で聞く『メア』そっくりだった。
だけど、ちっとも表情が変わらないわりに私を気遣いながら話す様子や、水魔法を床に落としてしまうような姿は、おとぎ話で聞くよりずっと身近に感じた。
メアくんが、本当におとぎ話の英雄『メア』なのか。
そんなことはもうどうでもよくなっていた。
この一週間、まるで先生が帰ってきてくれたかのように幸せだった。
そう感じると同時に、怖くなった。
メアくんは、どこにもいなくなったりしないよね?
胸が痛くなる。
確かめてみたくなってしまった。
メアくんは記憶喪失だ。おそらく、ここが空島ということを知らないだろう。
記憶を取り戻したい、と思っているのは知っている。
もしここが空島だと知ったら、メアくんはこの村を離れようとしてしまうのではないか。
「綺麗な眺めですよね」
「え……ああ」
空から地上を見下ろす、この景色は言葉では言い表せないほどきれいだった。
それなのに、メアくんの返事はどこか浮ついている。
そんな目をしないで。心臓がきゅっとなった。
「先生もよく、ここで景色を眺めていました。メアくんと同じ目を、していました」
吹き抜ける風が二人を分かつ。
「ねえフィリア。ここからは、どうやって地上に降りるの?」
「どうして。どうして知りたがるんですか」
「俺は、記憶を取り戻したい」
空気が凍ったのを肌で感じた。もうこれ以上、口を開かないでほしかった。
これ以上話すと、戻れない。時がここで止まればいいのに。
今ならまだ間に合うから。
「遅かれ早かれ、地上に降りないといけない」
それを聞いた瞬間、もう戻れないんだと悟った。
あふれ出る感情を抑えきれなかった。
「どうして、先生と同じことを言うの? 先生も……ずっと、地上に降りないとって言ってた。私は、フィリアはここにいるのに。どうして皆、私を置いていこうとするの……っ?」
私を見つめるメアくんの瞳は、困惑と、そして深い痛みに揺れていた。
悲しそうに眉を下げ、震えながら静かに口を開いた。
「――俺は『先生』じゃない。フィリアになにも、してあげられないよ。ごめん」
その言葉を聞いて、ハッとした。
私は、メアくんと先生を重ねていた。
メアくんが隣にいる間、お姉ちゃんが戻ってきたような気がしていた。
おとぎ話の英雄『メア』でもなく、ずっとずっと身近に感じるメアくんに先生を重ねていた。
でもメアくんは先生じゃないんだ。メアくんは、メアくんなんだ。
記憶を取り戻そうと必死で、そんな中でも私にはすごく優しくて。
どこか先生に似ていて。
でも、メアくんは先生じゃない。二年間一緒に過ごした先生じゃない。
――先生はもう、戻ってこない。
気づけば走り出していた。
◇
お母さんが病気になった。
重い病気じゃなかった。
私一人でも摘みに行けるような薬草があればすぐに治るものだった。
本当ならメアくんと一緒に行きたかった。
でもあの日以来、気まずくて誘えなかった。
薬草を摘みながら、花畑でのことを思い出す。
あの日、感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
記憶喪失で不安なメアくんに、勝手に『メア』と名付けて、先生の役目を押し付けて。メアくんにはメアくんの事情があるのに、村にとどめようとした。
そんな自分が心底嫌になった。
そんな中、彼は「ごめん」と謝った。
謝らないでほしかった。
勝手に押し付けたのは私なのに。
自己嫌悪でどうにかなりそうだった。
メアくんにとって、私なんてただの村娘だ。
記憶を探す旅の途中で、たまたま出会っただけの一人に過ぎない。
彼が地上へ降りる方法を見つけた時、きっと名残惜しむことすらなくあっさりと旅立ってしまうだろう。
そんなの嫌だ。
先生がいなくなって、メアくんまでいなくなってしまったら、私は――
「ひっ」
考え事に気を取られて、普段入らない道を通ってしまった。
そこには、角の二本生えた魔族がいた。
明らかに正気ではなかった。話の通じそうな相手ではなかった。
剣が振り下ろされる。
死ぬんだ、と思った。頭が真っ白になって、息が止まる。
――先生、助けて。
無意識に、もうここにはいない人の名前を心の中で叫んでいた。
◇
「大丈夫、大丈夫だから」
メアくんが、助けに来てくれた。
素手で刃を受け止め、手が血まみれになりながらでも私を背中に庇ってくれた。
大丈夫、と繰り返すメアくん。
けれど、私を庇うように広げられた彼の腕が、その指先が、小刻みに震えているのが見えてしまった。
怖いんだ。メアくんも本当は怖くてたまらないはずなのに、必死で恐怖を押し殺して私の前に立っている。
目の前にいる魔族は、森の魔物とは比べ物にならないほど強かった。
劣勢なのは私から見ても明らかだった。傷だらけになりながら血を流すメアくん。
追い詰められていく彼の背中を見たとき、胸の奥で何かが弾けた。
――もう、これ以上、傷ついてほしくない。
「メアくん」
私が呼ぶと、メアくんの身体が一瞬強張った。
「この間はごめんね。ずっと謝りたかったんです」
「今はそんな話をしてる場合じゃ――」
「私はメアくんを先生と重ねていました。メアくんは、メアくんなのに。メアくんには、記憶を探すっていう目的があるのに、ずっと村にいてほしいと思っていました」
メアくんが振り向く。精一杯強がって、笑顔を作った。
「メアくん。お願い。私を置いて、逃げて」
メアくんが突然、苦しそうな顔をして左手で顔を抑えた。
「――絶対に、嫌だ!」
魔族に向き直り、顔を苦しそうに歪めたまま、そう言い放った。
「終わったら、ちゃんと話そう」
「……うん」
その背中から、今まで見たこともないような熱気が立ち上る。
目を開けていられない。空気が歪むほどの熱量。
――それは、先生が見せてくれたどんな魔法とも違っていた。
メアくんの手から解き放たれたのは、漆黒の炎だった。
光さえ呑み込むような黒い火が、生き物のように魔族へと喰らいつく。
圧倒的だった。あれほど強大だった魔族が防ぐ術もなく焼かれ、地に膝をつく。
勝負は決した。メアくんは火を消し、私の方へ歩み寄ろうとする。
「メアくん――ッ!!」
思わず叫んだ。嫌な予感がした。
倒れたはずの魔族が動いた。魔力の立ち上がりを感じる。
無数の風の刃が、この空間ごと切り裂くように吹き荒れる。
――逃げられない。
もう駄目だと直感した。心に思いがあふれ出す。
メアくんと、ちゃんと話したかった。
ずっと目の前にいた、優しいメアくんを見てあげられなくてごめんね。
私の我儘で縛り付けて、こんなことに巻き込んでごめんね。
もう縛り付けたりしないよ。だから、メアくんには逃げてほしかったんだ。
私がここで死んじゃったら、メアくんはちゃんと逃げてくれるかな。
目を瞑った瞬間、強い衝撃と共に温かな腕が私を包み込んだ。
「ぐっ、ああ!」
メアくんが、私の盾になっていた。
背中に容赦なく突き刺さる風の刃。
彼が苦痛に顔を歪め、私を抱きしめる腕にギリギリと力が籠もる。
あたたかな体温が私にも伝わってきた。
やがて風が止む。
傷だらけの身体で立ち上がったメアくんは、もう一度魔族へと歩み寄った。
その横顔は、何か決心をつけたように見えた。
彼は震える右手で黒い火を灯す。
「あああああ!」
それは、まるで自分の魂を引き裂くような、メアくんの悲痛な叫び声だった。
焼けた魔族の身体から力が抜け、静寂が森を支配する。
ふらりと揺れたメアくんの身体が、地面へと崩れ落ちそうになった。
「メアくん!」
無我夢中で駆け寄り、その身体を抱きとめた。
「ごめん、ごめん……」
震える腕で私を抱きしめ返し、メアくんはうわごとのようにそう繰り返した。
物語の中の『メア』は、優しくて、強くて、弱いところも全部一人で乗り越えていった。
けれど、今私の腕の中にいるのは完璧な英雄なんかじゃない。
私の腕の中で震える、誰よりも優しくて繊細な、等身大の少年だった。
「メアくん。大丈夫、大丈夫ですよ」
震える頭をそっと撫でる。
◇
村へ戻る道中、メアくんは何度も立ち止まって嘔吐を繰り返していた。
その背中をさすりながら、ゆっくりと歩みを進める。
痛いほどの沈黙の中、決死の思いで口を開いた。
「あの場所に連れて行ったら、メアくんは地上に降りたいって言うって、なんとなく分かってたんです」
メアくんの足が止まる。
「それでも否定してほしくて。確かめたくて連れていっちゃって。バカみたい」
「……」
「メアくんは先生じゃないのに。ずっと先生の面影を重ねて……今度こそどこにも行かないでほしいって縛り付けようとしてました。自分勝手ですよね」
「……そんなことないよ」
どこまでも優しい声。
命を懸けて守ってくれたこの人の優しさに、私は救われた。
「メアくんは、優しいですね。助けに来てくれたとき、やっと分かりました。メアくんは先生じゃないです。でも――」
空を見上げる。
先生のいた空はどこまでも広かったけれど、今の私が見つめるべき人は、すぐ隣にいた。
「――私にとって、もう、すっごく大事な人なんです」
驚いたように目を見張るメアくん。
メアくんは相変わらず表情をひとつも変えなかったけれど、朱色の瞳をまん丸に見開いて、耳の先だけわかりやすく赤く染めていた。
いつも、何を考えているのか分からないくらい無表情なのに、こういうところだけはびっくりするほど分かりやすい。
その顔を見たら、胸のつかえが全部取れたように、自然と笑みがこぼれた。
先生がいなくなったあの日、私はただ泣いて見送ることしかできなかった。
何もできず、ただ待つことしか知らなかった。
もう二度とあんな後悔はしたくない。
メアくんは完璧な英雄なんかじゃない。
誰よりも繊細で、傷つきやすくて、放っておいたらどこかで壊れてしまいそうな男の子だ。
私には何もできない。
支えるなんておこがましいかもしれない。
それでも、ただ隣にいたい。
傍に居させてほしい。
私の中で新しく生まれた我儘だった。
「……ふふ、私、諦められなくなっちゃいました」
地上へ降りる彼の手を、今度は絶対に離さない。
そう心に誓いながら、私は小さくつぶやいた。




