第10話「命を焼きつくす炎」
風が巻き起こる。
魔力が集まり、魔法が放たれようとしていた。
俺に対してじゃない。この空間全体に対してだった。
フィリアが危ない。
咄嗟の判断でフィリアの元へ駆け寄る。
放たれた無数の風の刃が背後から迫る。
足は絶対に止めない。フィリアへ殺到する風刃。
すんでのところで間に合い、彼女を抱きしめて自らの背中を盾にした。
「ぐっ、ああ!」
背中が焼けるように熱い。
激痛に耐えかねて、抱きしめる腕にギリギリと力が籠もる。
肉を切り刻む衝撃が何度も背中を叩く。早く、終わってくれ。
無限に思えるほどの苦痛の末、ようやく風が止んだ。
「メアくん、き、傷がっ」
フィリアに言葉を返す余裕もなかった。
後ろでは、魔族が焼け爛れた手でもなお、剣を支えに持ち立ち上がっていた。
俺も立っているのがやっとだった。身体が重い。傷を受けすぎていた。
俺のせいだ。
俺に覚悟がなかったからフィリアをこんな危険に晒した。
相手は殺す気だったのに、俺は殺す気になれなかった。
ここまで来て、まだ甘さを捨てきれずにいた。
俺は人が殺せない。
人を殺そうとすると、どうしようもない拒絶反応が全身を支配する。魔物ですら咄嗟でないと殺せなかった。
殺そうとすると脳裏をよぎってしまう。
この魔族にも家族がいたのか?
今は知性を感じないが、前はそうではなかったのではないか?
感情を失っているようにみえるが、治してあげられるのではないか?
そう考えた結果がこれだ。
きっと、天秤にかけないといけないんだ。
全てを平等に想うなんて、到底できはしない。
何かを切り捨て、何かを選ばないといけない。
俺はフィリアに生きてほしい。
それ以外は今は要らない。
覚悟を決める。
魔族が剣を構えた。
上段ではなく下段だった。
もう、剣を上に構える力すら残っていないのだろう。
俺も、ここから大きく動くことはできない。
こちらに踏み込んでくる。
肉薄する。剣で下から斬り上げられる。
風の壁を出した。力のこもっていない斬撃は、風の壁に遮られた。
勝利を確信した。
魔族の首を右手で掴む。そのまま地面に叩きつけた。
端正な魔族の顔が視界に映った。初めてちゃんと目があった気がした。
その瞬間、背筋が凍えた。
右腕の力が緩まる。冷汗が肌を伝った。躊躇した。
だけど、止めてはいけない。考えるな。
歯を食いしばる。
消えかけた、今も燻る火を再燃させる。身体を火の魔力が巡った。
冷たいのに熱い。不思議な感覚だった。
右腕から先の感覚が消えていく。
脳がその感触を拒絶するように、すべての知覚を遮断していた。
今、自分がどれだけの力で相手を掴んでいるのかすら定かではない。
「あああああ!」
――だけど、その火は、解き放たれる瞬間をずっと待っていた。
はっきりと、自分の意志でスイッチを踏み抜く。
右腕を通して、漆黒の炎が魔族の全身を呑み込んでいく。
叫び声が聴こえた。
自分の声だった。自分が自分じゃないようだった。
誰かを通して自分を見ているかのような。そんな感覚だった。
手を離す。
それでも、その火は消えない。生命を焼き尽くすまで。
魔族の瞳に微かな知性の光が宿った気がした。
「あ、……は……さ、ま……?」
息をのんだ。言葉を発した。はっきりと意志を感じた。
俺を、誰と間違えている?
「まも……って……まし、た。いい……つ……どお、り」
火で焼かれた喉で、かすれながら言葉を紡ぐ。
「さい……ごに、また、あ……え……、よか……た……」
魔族の口端がわずかに上がった気がした。
それきり、魔族が動くことはなかった。火が静かに消えた。
薪となる生命はもう残っていなかった。命が尽きたのだ。
立ち上がる。
足が震えた。目の前が暗くなった。
頭が重い。身体の感覚がなくなる。
倒れる――
「メアくん!」
――抱きとめられた。
優しい手と小さな身体が俺を支えていた。
目の前は見えない。それでも震える手で抱きしめ返した。
「ごめん、ごめん……」
気づけば、口が開いていた。
それが殺した魔族に対してか、甘い判断で危険にさらしたフィリアに対してか、その両方か。自分でも分からなかった。
ずっと、ただ、ごめんと、うわごとのように。
自分の身体のはずなのに、制御が効かなくなっていた。
「メアくん。大丈夫、大丈夫ですよ」
頭を撫でられた。
「俺のせいで、危ない目に遭わせた……。俺が躊躇したから、甘かったから……ッ!」
「――メアくんがここに来てくれなかったら、私は今、ここにいませんでした。ほら、分かりますか?」
ぎゅっと手を握りこまれた。
暖かかった。冷え切った身体がそれだけで生気を取り戻したような気さえした。
◇
魔族と戦った広場。
魔族の後ろには小さな洞窟があった。
最期、魔族は守っていた、といっていた。あの洞窟のことだろうか。
今すぐに探索するような気力はなかった。
体力もまだ戻っていない。魔力を使いすぎてしまったのだろうか。
それとも傷を負いすぎたのか。身体の治りも遅い。
少し休んでフィリアと村に戻る。
魔族の死に顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
道中、俺は何度も立ち止まって嘔吐した。
そのたびに、フィリアは静かに背中をさすり続けてくれた。
重い足音と、乱れた呼吸だけが森の静寂に落ちていく。
お互いに言葉はなく、ただ痛いほどの静寂が二人の間を埋めていた。
俺を支えるフィリアの肩が小さく震えているのが伝わってくる。
やがて、その張り詰めた空気をそっと溶かすように、フィリアがぽつりと口を開いた。
「あの場所に連れて行ったら、メアくんは地上に降りたいって言うって、なんとなく分かってたんです」
フィリアが悲しそうに笑う。
「それでも否定してほしくて。確かめたくて連れていっちゃって。バカみたい」
「……」
「メアくんは先生じゃないのに。ずっと先生の面影を重ねて……今度こそどこにも行かないでほしいって縛り付けようとしてました。自分勝手ですよね」
「……そんなことないよ」
「メアくんは、優しいですね。メアくんが助けに来てくれて、やっと分かりました。メアくんは先生じゃないです。でも――」
フィリアは空を少しだけ仰ぎ見た後、こちらを向いて、屈託のない笑顔で言葉を紡ぐ。
「――私にとって、もう、すっごく大事な人なんです」
その笑顔を見つめていると、胸の奥がじんわりと熱くなった。
俺は、この子を守るために戦ったのだ。そのために命を奪ったのだ。
きっと、これからも迷うだろう。
どうしようもなく立ち直れなくなる時もあるだろう。
それでも、フィリアを守るためなら。
フィリアのためなら何度でも立ち上がれる。そんな気がした。
「……ふふ、私、諦められなくなっちゃいました」
そう、フィリアは小さくつぶやいた。




