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第9話 水門が一枚、落ちた

空気を引き裂くような轟音の余韻の中、私たちは湖畔へと走り出した。


 視界に飛び込んできたのは、北の湖を塞ぐようにそびえ立っていた古い水門――その東側の石壁が、無惨に崩れ落ちていく光景だった。


 上流からの局地的な豪雨による小規模な増水。本来なら耐えられるはずの水圧に、老朽化した水門は抗えなかったのだ。


「逃げろ! 水が来るぞ!」


 漁師の誰かが叫んだ。


 崩落した隙間から、牙を剥くように濁流が押し寄せる。泡立つ茶色い水塊は、湖岸に突き出していた木造の桟橋を飴細工のようにへし折り、網や舟具を収めていた漁師組合の古い倉庫を丸呑みにした。


 建物の柱が折れる音。水しぶきとともに、木材が飛び散った。


「リディア、下がって!」


 オスカーが私を庇うように前に出た。水飛沫が私たちの足元まで跳ねる。


 彼は顔面を蒼白にしながらも、書記官長の声を張った。


「船を出せ! 沖に出ている船に合図を送るんだ! 岸に残っている者は高台へ引け!」


 オスカーは混乱する漁師たちの間へ飛び込んだ。


「市庁舎の職員は、私のもとへ!」


 私は持参した革張りの鞄から、先ほどまで見ていた三村と湖畔の住民名簿を引き抜いた。


 風に煽られる紙面を腕で押さえつけ、避難してきた人々の顔と名前を一つひとつ照らし合わせた。


「倉庫にいた者は? 荷運びの若者たちは逃げましたか!」


「全員、崩れる前に飛び出しました! ですが沖の二隻が戻っていません!」


「オスカー書記官長が救助船を手配しています。私はご家族の確認を。クララさんたちの姿は?」


「南の村の連中なら、高台の教会に集まっています!」


 飛び交う報告をインクで書き留め、まだ印のついていない名前を大声で読み上げる。


 泥水で名簿の端がふやけていく。私は濡れた紙を腕で押さえ、空欄の名前を読み上げ続けた。


 やがて、濁流の勢いが少しずつ収まり始めた。


 湖面の波立ちが落ち着きを取り戻した頃、ずぶ濡れになったオスカーが私の元へ戻ってきた。


「沖の二隻、自力で戻りました。怪我人はいますが、命に別状はありません」


 私は名簿の最後の行に印をつけ、深く、長く息を吐き出した。


「こちらも、全員の安否が確認できました。流されたのは桟橋と倉庫のみ。死者、行方不明者は……ゼロです」


 私の言葉を聞いて、周囲に集まっていた住民たちから、へたり込むような安堵の吐息が漏れた。


 誰一人、命を落とさずに済んだのだ。


「よかった……」


 私が名簿を閉じようとした時、ふと隣に立つオスカーの様子がおかしいことに気づいた。


 彼は無事を確認したというのに、濁りきった湖面をじっと見つめたまま、眼鏡の奥の瞳を硬く強張らせていた。手すりを握りしめるその指の関節は、血の気が引いて真っ白になっている。微かに、その肩が震えていた。


「オスカー?」


 名前を呼ぶと、彼は弾かれたように私を見た。


 いつもの冷静で穏やかな彼ではない。そこにいたのは、恐怖に耐えるひとりの人間の顔だった。


「……申し訳ありません」


 オスカーは手すりから指を一本ずつ剥がし、濡れた外套のポケットへ押し込んだ。


「どこか、お怪我を?」


「ありません。報告を続けましょう」


 答えはいつもの声だった。けれど、私が名簿を閉じても、彼は湖を見たままだった。


 私は何も尋ねず、彼の隣へ立った。


「書記官長! リディア様!」


 人垣を掻き分けて、ずぶ濡れになった水利技師が駆け寄ってきた。


 手には、インクが滲んだ図面が握られている。その表情は、私たちが先ほど確認した「全員無事」という安堵を、根底から覆すほどに蒼白だった。


「崩れた東側の調査をしてきました。結論から言います。残った水門も、内部の石組みに致命的な亀裂が入っています。応急処置は不可能です」


 技師は、泥だらけの指で図面を叩いた。


「今回は小規模な増水で済んだから、一枚落ちただけで持ち堪えました。ですが、次に本格的な雨が降れば、水門はすべて崩壊します」


「……どれくらい、もつんだ?」


 オスカーの声が硬くなる。


「長雨が来なければ、六十日。もし豪雨が来れば、明日にも」


「次に水が来た時……今度は倉庫では済みません。沈むのは、レーヴェの市街地か、南岸の三つの村か。どちらかです」

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