第8話 私の名前で、誰が決めたのですか
翌朝、私はオスカーと共に南岸の村を訪れた。
湖畔沿いに点在する三つの村に足を踏み入れた瞬間、異様な光景が目に飛び込んできた。
木造の質素な家、石積みの倉庫、網を干すための小屋。
二百十八世帯、すべての建物の扉に、赤い塗料で「移転対象」の印が描かれていた。柱に刻まれた子どもの背丈も、白い漆喰も、その印が横切っている。
「ひどいな……」
私の隣で、オスカーが低く呻いた。
村の広場には、不安に駆られた住民たちが集まっていた。彼らの手には、昨日配られたという通知書が握られている。だが、その紙の種類は一つではなかった。
「ふざけるな! 俺たちは三十年もこの土地を耕してきたんだぞ!」
「地主のあんたたちはいいさ。土地の補償金が出るんだからな。だが、俺たち小作人には、この紙切れ一枚だ!」
怒号が飛んでいた。
土地を所有する地主の手には、分厚い封筒に入った「補償通知」がある。しかし、クララのような借地農民や、収穫期だけ雇われる季節労働者の手には、期日までに自発的に退去せよと書かれたペラペラの「退去通知」しかない。
地主の男が何か言い返そうとし、隣にいた老人に袖を引かれた。昨日まで同じ井戸を使っていた者同士が、目を合わせなくなっていた。
私は、赤い印の前で立ち尽くす老夫婦を書き留めた。妻の指は、扉の柱に刻まれた子どもの背丈の跡をなぞっていた。
「戻りましょう、オスカー」
私は手帳を閉じた。
「まず、私の名を使った根拠を確かめます」
市庁舎に戻った私は、すぐさま王室調整局へ宛てた抗議状を作成した。
宛名は、王室調整局長マティアス・ヴェルナー。かつて王都にいた頃、各省庁の案件を私の執務室へ持ち込んできた官僚の一人だ。
『南岸遊水地計画の通知書において、私の名義が「事前調整済み」として無断使用されている件につき、即時停止と文書の撤回を求めます』
感情的な言葉は一切使わない。
三年前の私の記録には「一時退避の可能性」しか記述されておらず、恒久的な水没や住民移転に同意した事実はないこと。公文書における虚偽の記載であること。それらを事実として羅列し、レーヴェの聞き書き人としての署名と印を添えて、早馬で王都へ送った。
返答が届いたのは、その日の夕刻だった。
オスカーが受け取った封書には、調整局長マティアスの私印が押されていた。
『リディア・アーヴェル様。
急な通知にご不快の念を抱かれたことは遺憾に存じます。該当の記載は、三年前の事前調整記録を現在の危機に合わせて要約したものです。「事前調整済み」とは、あなた個人の賛同ではなく、調査の実施を示します。
なお、名義記載のみを理由とした撤回は、住民の安全に重大な遅延を生じさせます。事情をご賢察のうえ、手続きの継続にご理解を賜りたく存じます』
私の同意の有無には、触れていない。
「……身勝手な言い分ですね」
横から文面を読んだオスカーが、眼鏡の奥で目を細めた。
「名義の意味を、あとから変えています」
「ええ。ですから、意味が違うと記録に残します」
私がきっぱりと言い切った直後、市庁舎の入り口が騒がしくなった。
早馬の使者が、もう一通の書状を持ってきたのだ。封蝋には、王家の紋章が押されていた。
「王室からの通達です!」
受け取った書状を開くと、そこには短い命令が記されていた。
『リディア・アーヴェルからの名義無断使用の申し立てを受理した。事実関係の調査が完了するまでの間、南岸三村に対する立ち退き通知の効力を一時停止とする』
私は、クララの通知書に押した黒い印を思い出した。
少なくとも、その印が乾く前に村を追われる者はいない。
「やりましたね、リディア」
オスカーが、珍しく相好を崩して微笑んだ。
「三村へ写しを届けます。その次に、協議の席を――」
ズズン、と。
足元の床が、微かに、しかし確かな重さを持って震えた。
「……地震、ですか?」
私が窓の外へ視線を向けた直後、今度は空気を震わせるほどの轟音が響き渡った。
ゴギャアァァッ、という、巨大な石の塊がひび割れ、無惨に砕け散るような音。
音の出処は、王都でも、市庁舎の裏手でもない。
北の湖の方角だった。
広場を歩いていた人々が一斉に足を止め、湖へと続く道を見つめている。上空を飛んでいた湖鳥たちが、悲鳴のような鳴き声を上げて一斉に飛び去っていった。
手の中の効力停止命令が、震えた。




