第7話 私たちの村を沈めると決めたのですか
「あなたが、私たちの村を沈めると決めたのですか!」
市庁舎の窓口に叩きつけられた分厚い紙を見て、私は息を呑んだ。
オスカーからの求婚を受け入れ、聞き書き人の養成所設立に向けて準備を進めていた、一か月後のことだった。
目の前に立つ女性は、雨に濡れたような暗い色の外套を羽織り、小さな女の子の手を固く握りしめていた。怒りよりも、恐怖と絶望でその肩は小刻みに震えている。
「落ち着いてください。私はレーヴェの聞き書き人、リディア・アーヴェルです。村を沈めるとは、どういうことでしょうか」
「とぼけないで! あなたの名前が書いてあるじゃないですか!」
女性が指差した紙に目を落とす。
それは、見覚えのある上質な羊皮紙だった。王都の官僚が好んで使う、長期保存用の公文書だ。
『南岸遊水地計画に基づく立ち退き通知』
見出しの下には、洪水対策として湖の南岸にある三つの村を恒久的な遊水地とし、住民を移転させる計画が記されていた。対象となるのは二百十八世帯。
「私は南の村で畑を借りて暮らしている、クララと申します。一昨日、村のすべての家の扉に、赤い印が打たれました。移転の対象だという印です」
クララと名乗った女性は、血の気の引いた唇を噛んだ。
「地主の家には補償金の通知が来ました。でも、私たちのような借地農民には、立ち退き命令の紙切れ一枚だけです。冬を前に畑を取り上げられたら、娘と一緒に路頭に迷うしかないのに!」
私は文書の末尾を確認した。
そこには、王室調整局の重々しい赤い職印が押されている。そして、その印のすぐ横に、信じられない一文が添えられていた。
『本計画は、元王太子妃候補リディア・アーヴェルによる事前調整済みであり、各方面の合意を得たものである』
背筋に冷たいものが走った。
確かに三年前、私は北湖の水利協定に向けて事前調整を行った。各国の農業組合から話を聞き、南岸の低地が洪水時の「一時的な退避先」になり得るという地形的な事実は記録した。
だが、村を恒久的に水没させる案など、一度も推奨していない。二百十八世帯の生活を奪う計画に、同意の署名をした覚えなど絶対にない。
誰かが、私の古い記録を切り取り、別の結論へつないでいる。
「村の皆も言っています。王太子妃候補だった方が調整して全員が納得した計画なら、逆らっても無駄だと。でも、納得なんてしていません! 私たちは何も聞かされていなかった!」
クララの叫びが、市庁舎の石造りの壁に響いた。
「クララさん」
私は窓口のペン立てから、一番太い黒インクのペンを引き抜いた。
「この通知書を、少しお借りしてもよろしいですか」
「え……?」
戸惑うクララの前で、私は王室調整局の赤い職印が押された公文書を、自分の手元に引き寄せた。
そして、『リディア・アーヴェルによる事前調整済み』という一文のすぐ横の余白に、黒々と書き込んだ。
『私、リディア・アーヴェルは、三村の恒久水没を提案した事実も、本計画に同意した事実も一切ないことを、ここに明記する』
書き終えると同時に、私は引き出しから自分の名前が刻まれた印章を取り出し、その文面の末尾に強く押し当てた。
レーヴェの聞き書き人としての、正式な受理印だ。
「な、何を……王室の文書に、勝手にそんなことを書いて……」
「勝手ではありません。私の名前が、私の許可なく使われていたのです」
私は顔を上げ、クララの目をまっすぐに見た。
「私は村を沈めるとは決めていません。誰かが、私の名前を使いました。あなたの証言は、私が記録します」
クララは、私と文書を交互に見た。
「そんな……じゃあ、私たちは、追い出されずに済むのですか?」
「現時点では、わかりません。誰が、何の目的でこの決定を下し、私の名前を使ったのかを調べ、正しい決裁者に差し戻す必要があります」
「まず、皆さんから話を聞かせてください」
クララの目から、張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女は何度も頷き、濡れた手で顔を覆った。
そのときだった。
クララの陰に隠れていた小さな女の子が、とてとてと背伸びをして、窓口のカウンターに何かを置いた。
硬い金属の音がした。
置かれたのは、鉄製の古い鍵だった。
角がすり減り、毎日大切に使い込まれてきたことがわかる、小さな家の鍵。
女の子は、私の目をじっと見上げて、小さく澄んだ声で尋ねた。
「おねえちゃん。ここも、湖の底になるのですか」




