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第6話 私が引き受けるもの

婚約破棄から一年後。


「申し訳ありません。今月は三件を受けていますので、新しい聞き書きは来月以降になります」


 市庁舎の窓口で私が告げると、依頼人の男性は困った顔をした。


「そこを何とか、夜にでも」


「夜間の受任はいたしません。お急ぎでしたら、こちらの二名が今週中に対応できます」


 別の聞き書き人の名と料金を記した紙を渡す。


 男性はしばらく粘ったが、やがて一人を選び、そちらの窓口へ向かった。


 私は追いかけなかった。


 胸は痛まない、とはまだ言えない。


 けれど、痛んだからといって、引き受け直すことはなくなった。


 私の勤務は週四日。同時に受ける案件は三件まで。休日のうち一日は一人で過ごし、もう一日はたいていオスカーと過ごす。


 王都から届く新聞によれば、三百二十七件の保留は残り六件になっていた。長期調査が必要なものは、保留ではなく「調査継続」として、担当者と次の報告日が公示されている。


 すべての案件に決裁者と期限を記す規則も施行された。


 フェリクス殿下は今も、ときどき批判されている。


 けれど、批判された大臣や議員が、私の名を出すことはなくなった。


 ミレーヌ嬢は一年の政治教育を終えたあと、殿下からの二度目の求婚を受けたという。今度は彼女自身が決めた期限に、彼女自身が返事をした。


 その知らせを読んでも、私の胸は静かだった。


 父は一度だけ、レーヴェを訪れた。


 書類も縁談も持ってこなかった。湖畔を歩き、私が借りた小さな家で豆の煮込みを食べた。


「眠れているか」


 父が尋ねたのは、それだけだった。


「はい。近ごろは、目覚ましの鐘に気づかない日もあります」


 昔の父なら、怠けすぎだと言ったかもしれない。けれどその日は、皿へ目を落として「そうか。よかった」と答えた。


 失った十一年が戻るわけではない。短い謝罪一つで、理想の親子にもなれない。


 それでも私たちは、何を話すかをこれから選び直せるのだと思った。


「リディアさん。少し時間をもらえますか」


 夕方、オスカーが二通の書類を持ってきた。


「勤務時間は、あと半刻あります」


「一通目は仕事の話です」


 差し出されたのは、聞き書き人の養成所を作る計画書だった。


 レーヴェだけでなく、近隣の町でも、決定を肩代わりせずに話を整理できる者を育てたい。教師は私とオスカー。週二日の講義から始め、既存の仕事量を減らした分だけ報酬を補う。


 運営責任、予算、撤退条件まで記されていた。


「共同運営者になってほしいと思っています。ただし、返答期限は一月後。修正案も、拒否も受け付けます」


「検討いたします」


 私は計画書を受け取った。


「もう一通は?」


「仕事ではありません」


 オスカーは、珍しく眼鏡を外した。机へ丁寧に置いたあと、小さな紺色の箱を開く。


 中には、湖の色をした青い石の指輪があった。


「私は、あなたを愛しています」


 いつも落ち着いている声が、ほんの少し震えていた。


「迷っているあなたも、休んでいるあなたも、仕事がなくて何の役にも立たないと感じているあなたも、一緒に生きたい。私と結婚してくれませんか」


 私は反射的に、答えるための条件を探した。


 住む場所。家計の分担。養成所との関係。侯爵家への報告。彼にとって有利な返事。


「返事に期限はありません」


 オスカーが言った。


「指輪も、今は受け取らなくていい。考える時間が――」


「いいえ」


 彼の顔が強張った。


 私は慌てて首を振った。


「お断りするという意味ではありません。期限は要りません」


 正しい結婚かどうかを、誰かに決めてもらう必要はない。


 この人といると、役に立たない時間が怖くない。


 できないことを、できないと言える。


 彼の希望を叶える義務はない。それでも、同じ希望を持ちたいと私が思う。


「私も、あなたを愛しています」


 声にすると、胸の奥へ温かなものが満ちた。


「私は、あなたと家族になりたい。ですから、結婚してください」


 オスカーは何度か瞬きをした。それから、困ったように笑った。


「私が申し込んだはずなのですが」


「私からも申し込みたいのです」


「では、喜んでお受けします」


 彼は私の前にひざまずき、指輪をはめた。


 青い石は、窓の向こうの湖と同じ色に光った。


 立ち上がった彼の腕が、ためらうように私の背へ回る。私は待たずに、その胸へ自分から身を寄せた。


 触れた唇は少し震えていて、温かかった。


 三百二十七件の保留を返した日、私は何も持たなくなると思っていた。


 けれど、違った。


 誰かの代わりに引き受けていたものを手放したからこそ、自分で選べるものが残ったのだ。


 仕事も、休息も、愛する人も。


 私はもう、誰かの代わりに嫌われない。


 これから引き受けるものは、私が望み、私の名前で選んだものだけだ。

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