第5話 謝罪と依頼は別です
その三日後、フェリクス殿下がレーヴェを訪れた。
同行者は護衛二人と、ミレーヌ嬢だけだった。
王国の使節が来るなら広間を使うところだが、殿下は市庁舎の小会議室を希望した。王城で私たちの婚約が終わった部屋と、同じくらいの広さだった。
「久しぶりだ、リディア」
「お久しぶりでございます、殿下」
立場にふさわしい挨拶を交わし、向かい合って座る。
殿下は少し痩せていた。
以前なら、私は睡眠時間や食事を尋ね、王都での仕事量を推測しただろう。今はしなかった。殿下の生活を管理するのは、私の役目ではない。
ミレーヌ嬢は淡い黄色のドレスを着ていた。王太子の隣にいるからといって、王太子妃候補の紋章は身につけていない。
「今日は、二つの用件があって来た」
殿下は膝の上で一度手を握り、それから机へ置いた。
「最初に、謝罪をさせてほしい」
私は黙って次の言葉を待った。
「君が冷酷だったのではない。僕たちが決めなかった結果を、君に背負わせていた。君には署名する権限がなかったのに、反対する者を納得させるところまでを君の責任にした」
殿下は、私から目をそらさなかった。
「堤防の件で、東の村へ説明に行った。石を投げられたよ。なぜ自分たちではないのかと聞かれたとき、誰かの調整が足りなかったからだと言いたくなった」
そこで、いったん息を継いだ。
「そのとき初めて、僕が何を君にさせていたのかわかった。僕は全員を救う案を探していたんじゃない。誰にも恨まれずに済む言葉を、君に作らせていたんだ」
胸の奥に、昔の痛みが戻った。
けれど今の私は、その痛みを消すために殿下を慰める必要がない。
「社交界で君が『灰色の令嬢』と呼ばれていることも知っていた。訂正しなかった。君に怒りが集まれば、王家へ向く怒りが減ったからだ。すまなかった」
正しい謝罪だと思った。
だからといって、聞いた瞬間に傷が消えるわけではない。
「謝罪は、確かにお聞きしました」
「許してくれとは言わない。僕にそれを求める権利がないことも、今はわかっている」
殿下は頭を下げた。
王太子が元婚約者へ頭を下げた事実に、勝ったという喜びは湧かなかった。
ただ、あの雨の夜から止まっていた時計の針が、一つ動いたように感じた。
殿下が顔を上げるまで、私は待った。
「もう一つは、王国からの正式な依頼だ」
護衛が、封印された書類箱を机へ置いた。
「隣国との水利協定が、七か月後に更新期限を迎える。君は三年前から両国の農業組合と話していた。王国へ戻れとは言わない。三十日間だけ、外部調停人として交渉の記録と論点整理を頼みたい」
私は書類を開いた。
契約期間、三十日。
勤務場所は国境の合同会議所。報酬は金貨二百枚。交渉内容への調査権と、両国の専門官を招集する権限を認める。最終決裁者は両国の水利大臣。交渉が決裂した場合も、調停人個人に賠償責任を負わせない。
依頼を断った場合の不利益もないと明記されていた。
以前の殿下なら、作らなかった書類だ。
「よく整えられた契約書です」
「君の返却書から学んだ」
「私が過去に行った聞き取りの記録は、すべて水利局へ返却しております。担当官も内容を確認なさったはずです」
「ああ。だが、両国の代表は君を知っている。君が来れば、話が早い」
私は契約書を閉じた。
条件に不足はない。
国境の農民たちが、水を必要としていることもわかる。私が行けば、少なくとも最初の聞き取りは円滑に進むだろう。
以前の私なら、そこで考えることをやめていた。
困る人がいる。私には助ける能力がある。ならば引き受けるべきだ。
今は、もう一つ問いを持っている。
私は、引き受けたいのか。
「お断りいたします」
殿下の顔がこわばった。
「条件に不備があっただろうか」
「いいえ。正式で、適切な依頼です」
「なら、なぜ」
「私は現在、レーヴェで二件の調停を担当しております。三十日の不在は、契約した仕事に影響します。それに、ここでの生活を中断してまで、その依頼を引き受けたいとは思いません」
「水利協定がまとまらなければ、国境の農地が――」
「フェリクス様」
ミレーヌ嬢が、静かに遮った。
「謝罪を受け入れていただくことと、依頼を引き受けていただくことは別です」
殿下が、はっとしたように彼女を見た。
「リディア様は、依頼を断っても不利益を受けないと書かれた契約書を読んで、お断りになりました。その返事を変えさせようと国境の方々を持ち出せば、以前と同じです」
ミレーヌ嬢は政治を知らないと聞いていた。
けれど、人の返事を尊重するために、専門知識は必要ないのだ。
殿下は目を伏せた。
「……そのとおりだ。すまない」
「殿下が決めるようになったことを、私は嬉しく思います」
私はまっすぐ、かつての婚約者を見た。
「ですが、そのご褒美として私が戻る必要はありません」
「わかっているつもりだった」
「今、おわかりになればよいのです」
殿下は、もう一度だけ契約書へ目を落とした。そして自分の手で箱へ戻し、蓋を閉じた。
「ほかの調停人を探す。三人の候補から返事をもらっているんだ。本当は、君に頼むことを先に決めていた」
「でしたら、今度は候補の方々の条件を比べて、殿下がお選びください」
「ああ。僕が決める」
その声に、以前のような逃げ道はなかった。
ミレーヌ嬢は席を立つ前、私へ深く頭を下げた。
「私からも、お詫びいたします。私は何も知らないまま、フェリクス様にとって楽な場所にいました」
「あなたが私の仕事を奪ったのではありません」
「はい。ですから、あなたの代わりになるとも申しません。私は私に必要なことを学び、それから、この方との関係を決めます」
殿下が苦笑した。
「僕は今、彼女から婚約を保留にされている」
「保留にも、期限と決裁者を記してくださいませ」
私が答えると、ミレーヌ嬢が吹き出した。
殿下も、少し遅れて笑った。
それは十一年の婚約のやり直しではない。
もう互いの人生に責任を持たない者同士が、ようやく交わせた、短い別れの笑いだった。
二人を見送ると、廊下の窓辺でオスカーが待っていた。
「話は終わりましたか」
「はい」
「一人でお茶を飲みたいですか。それとも、誰かと湖畔を歩きたいですか」
何があったのかも、私がどんな返事をしたのかも、先に聞かなかった。
「湖畔を歩きたいです。あなたと」
オスカーは微笑み、私へ腕を差し出した。
湖へ続く道で、私は依頼を断ったことを話した。
「もし私が王都へ戻ると決めていたら、どうしましたか」
「寂しいとは伝えます」
その答えに、私は足を止めた。
「止めないのですか」
「あなたが自分で選んだなら。契約書に不利な条項がないか、一緒に確認します」
「そうですか」
「ただし、戻ってきてほしいとは言います。これは依頼ではなく、私の希望です」
私は彼の腕へ置いた手に、少しだけ力を込めた。
「覚えておきます」
その日、私は初めて、誰かの希望を聞いても、それを叶える責任を感じなかった。
ただ、叶えたいと、自分で思った。
湖畔の道が終わる前に、私は足を止めた。
「オスカー。仕事ではない話をしてもよいですか」
「もちろん」
「以前、依頼がない日でも私と食事をしたいとおっしゃいましたね。あれは、交際を望んでいるという意味でしょうか」
彼は眼鏡の奥で目を見開き、それから耳まで赤くした。
「そのつもりでした。急かしたくなくて、続きを言えませんでした」
「私は、含まれた意味を正しく読むのは得意なはずなのですが、自分へ向けられたものは難しいようです」
「では、曖昧にしません。私はあなたに恋をしています。仕事仲間としてだけでなく、恋人として会いたい」
胸が速く鳴った。
正しい返事ではなく、望む返事を選ぶ。
「私も、休日にあなたと会いたいです。恋人として」
オスカーは、契約書へ署名するときより何度も確かめるように、私の手を取ってよいかと尋ねた。
私は笑って、自分から彼の手を握った。
このときの私はまだ、オスカーが次に差し出す「仕事ではない書類」の中身を知らなかった。




