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第10話 三つの案、三つの犠牲

翌日、レーヴェ市庁舎の議場は、割れるような怒声と恐怖の熱気に包まれていた。


 正面の黒板には、大きくひび割れた北水門の図面が張り出されている。その前に立つ水利技師は、徹夜の調査で血走った目を向けながら、この地域が選ばなければならない「三つの道」を提示した。


「残った水門が耐えられるのは、最長で六十日。豪雨が来れば明日にも決壊します。私たちが選べる対応策は、三つしかありません」


 議場に詰めかけた数百人の住民たちが、息を呑んで技師の言葉を待つ。


 私は書記官の席に座り、真新しいインクにペン先を浸した。ここから先は、誰の感情も交えない事実だけを記録しなければならない。


「一つ目は、A案。昨日まで進められていた『南岸遊水地計画』の実行です」


 技師が図面の南岸を指す。


「最も短期間で、市が負担する費用も安く市街地を守れます。しかし、南岸の三つの村は恒久的な遊水地となり、二百十八世帯が移転を余儀なくされます」


 広場の片隅で、クララが幼い娘を抱きしめるようにして震えていた。


 二百十八世帯という数字の中には、地主だけでなく、彼女のような借地農民や季節労働者も含まれている。地主には王家から土地の補償金が出るが、彼らには一銭の補償もなく、家と働き口だけが奪われるのだ。


「二つ目は、B案。古い北水門の『全面修繕』です」


 技師は次に、巨大な水門の図面を叩いた。


「これなら村は沈みません。しかし、修繕には莫大な費用と両国議会の承認が必要となり、工期は数年に及びます。その数年間、レーヴェ市街の低地に住む人々は、いつ水が溢れるかわからない決壊の恐怖に怯えながら暮らすことになります」


 今度は、市街の住民たちが顔色を失った。


 彼らにとって、それは「数年間、毎晩死の危険と隣り合わせで眠れ」と言われているに等しい。


「最後の三つ目は、C案。民間会社への『新水門建設の委託』です。彼らの資金と技術を使えば工期は短く済みますが、見返りとして三十年間、湖上通行料と乾期の取水優先権を会社へ渡すことになります。小規模な漁師や行商人にとっては、三十年続く重い負担となります」


 三つの案。三つの犠牲。


 二百十八世帯の家と畑か。数年に及ぶ市街地の命の危機か。それとも、三十年間の湖の権利か。


 誰も無傷では済まない選択肢を突きつけられ、議場は一瞬の静寂ののち、爆発したような怒号に包まれた。


「冗談じゃない! 数年も水没の恐怖に耐えられるか! 一番早くて確実なA案にするべきだ!」


「ふざけるな! あんたたちの安心のために、俺たちの村を海の底に沈めろって言うのか!」


「C案なんて選んだら、漁師は通行料を払えなくて首を吊るしかなくなるぞ!」


 市街の住民が机を叩き、三村の住民が椅子を蹴り飛ばす。


 隣の席で記録を取るオスカーは、B案の説明が始まってから一度も湖側の窓を見なかった。膝の上で握った拳にだけ、力が入っている。


 やがて、収拾のつかなくなった群衆の矛先が、不意に私へと向いた。


「おい、そこのあんた! 王都から来た令嬢だろ!」


 市街の商人らしき男が、私を指差した。


「あんた、王都で各省庁の揉め事をまとめてたって聞いたぞ。王太子妃候補だったなら、こういう時に一番正しい答えを知ってるはずだ。どれが一番マシな案なのか、あんたが代わりに決めてくれ!」


 その言葉に、議場の視線が一斉に私へ突き刺さる。


「そうだ、あんたが正しい案を教えてくれ!」


「専門家なら、誰も損をしない方法を知ってるんだろう!」


 私はゆっくりと席を立ち、議場を見渡した。


「私には、わかりません」


 私の静かな声は、喧騒の中でも不思議なほどよく響いた。


「どれが一番マシな案なのか、誰も損をしない魔法のような方法があるのか。私にはわかりませんし、選ぶ権利もありません」


「なんだと!? じゃあ、何のためにそこに座ってるんだ!」


「あなたたちの言葉を、隠さずに記録するためです」


 私は手に持っていたペンを机に置き、群衆をまっすぐに見据えた。


「商人組合の方。A案を選べば、クララさんの家が沈みます。その決定書に、私の名を書くことはできません」


 男の指が下がった。


「では、誰が決めるんだ」


「家を沈める者。危険を待つ者。三十年、料金を払う者です」


 私は三枚の案を、机の端へ揃えて置いた。


「失うものを記録します。選ぶ方の名も、残します」


 椅子が軋んだ。すぐに賛成する者はいなかった。


 市庁舎の重厚な両開きの扉が、外側から大きく開かれた。


 現れたのは、磨き上げられた銀の甲冑を纏った王室近衛兵たちだった。


 彼らが左右に道を空けると、その奥から、見慣れた金糸の刺繍が施された外套を羽織る青年と、淡い色のドレスを着た女性が足を踏み入れた。


 フェリクス王太子殿下と、ミレーヌ・ロッシュ嬢。


「王国からの正式な代表として、フェリクス王太子殿下が到着されました」


 近衛兵の通る声が議場に響く。


 フェリクス殿下は空いていた席ではなく、「セレスタ王国」と札の置かれた席へ座った。

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