第11話 今度は、町の署名欄がある
議場の喧騒が、波が引くように静まり返った。
王国の正式な代表としてレーヴェ市庁舎に足を踏み入れたフェリクス殿下は、一直線に議長席へと歩み寄った。その手には、王家の紋章が押された革張りの筒が握られている。
「急な訪問を許してほしい。レーヴェの水門崩落の危機は、王都にも届いている」
殿下は、私を一瞥することもなく、議場を埋め尽くす市民たちへ向かって声を響かせた。
殿下は筒から分厚い羊皮紙を取り出し、卓上に広げた。
「王室調整局から『南岸遊水地計画』の通知が出されたことは承知している。だが、水門が崩壊の危機にある今、一方的な通達で決める時間はない。私が持参したのは決定書ではない。今日から始まる協議のための、基本合意書の素案だ」
四つの、空白の署名欄だ。
「この危機を乗り越えるため、セレスタ王国、ローデン公国、レーヴェ評議会、そして南岸三村の代表。この四者の署名が揃わなければ、いかなる案も最終決定とはしない」
クララは娘を抱き上げたまま、末尾を何度も見直した。
王国と公国の名の隣に、「南岸三村代表」と印刷されている。
「ですが、フェリクス殿下!」
市街の商人が、張り詰めた声で叫んだ。
「署名欄を作ったって、どうせ一番安上がりな三村の水没案に賛成しろって圧力をかける気なんだろう! 俺たち市街の人間だって、水没の恐怖に何年も怯える案なんかに署名できないぞ!」
怒鳴り声に、再び議場が険悪な空気に包まれそうになる。
それを押し留めたのは、殿下の隣に控えていたミレーヌ嬢だった。
「おっしゃる通りです」
淡い色のドレスを着た彼女は、怯むことなく一歩前へ出た。
「ですから、質問を受ける机を作ります。読めない箇所は、その場で読み上げます。私が答えられない質問には、答えられる者の名を書きます」
ミレーヌ嬢は近衛兵から小机を受け取り、自分で議場の端へ運び始めた。
フェリクス殿下は止めなかった。
「話し合いの場が設けられることは、歓迎いたします」
沈黙していたオスカーが、書記官長として口を開いた。
「ですが殿下。時間はありません。水利技師の報告によれば、残った水門が耐えられるのは最長で六十日です」
「わかっている。だからこそ、王室調整局に命じて、先ほどの三つの案を比較検討するための詳細な技術資料を持参した」
殿下の合図で、近衛兵たちが議場にいる者たちへ次々と資料を配り始めた。
私とオスカーの手元にも、分厚い書類の束が置かれる。
表紙には、王室調整局長マティアス・ヴェルナーの流麗な署名と、赤い職印があった。
ページをめくると、そこにはレーヴェ周辺の広域地図が挟み込まれていた。
私はその地図を見た瞬間、全身の血が冷たく引いていくのを感じた。
地図上の南岸、クララたちが暮らす三つの村だけが、赤いインクで塗りつぶされていた。
そして、赤く塗られた三村から太い矢印が引かれ、大きく『推奨遊水地案』と記されている。
議場が再びざわめき始める。資料を受け取った三村の住民たちが赤い地図を見て顔色を失い、市街の住民たちが「やはり王国もこの案を推しているのか」と声を上げ始めた。
「殿下、これはどういうことですか」
オスカーが鋭い声で問いただす。
「公平な協議の場に、なぜ最初から三村を犠牲にすることを『推奨』とする資料が提出されるのですか。これでは結論ありきだ」
フェリクス殿下は、苦渋に満ちた顔で地図を見つめた。彼自身も、この資料の強引さには頭を悩ませていたようだった。
「調整局長のマティアスは、これが最も現実的で、国全体の被害が少ない案だと主張している。そして、この推奨案がただの思いつきではなく、過去の綿密な調査に基づいた最適な結論であるという確固たる『根拠』がある、とな」
根拠。
私は嫌な予感を覚え、地図の隅に書かれている小さな注釈文に目を凝らした。
そこには、推奨案を裏付けるための「過去の調査記録からの引用」として、王室調整局の正式な見解が記載されていた。
『――以上の技術的見地から、王都の安全と下流域の保全を両立させるためには、南岸低地を恒久的な遊水地とすることが最も適している。また、対象地域の住民は一定の補償と引き換えに、自発的な移転に同意する意向を示している。これは、当時事前調整を担当したリディア・アーヴェルによる現地調査の結論と完全に一致するものである』
指先に力が入り、上質な紙が、くしゃりと鳴った。
「リディア?」
異変に気付いたオスカーが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
三年前、私が書いたのは「一時的な退避先になり得る」という一文だけだ。
恒久水没も、自発的移転も、私の言葉ではない。
私が書いた覚えのない一文が、私の調査の結論として印刷されている。
「この原文を、確認させてください」
私は折れ目のついた資料を、フェリクス殿下の前へ戻した。




