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第12話 これは、私が望んで引き受けます

「フェリクス殿下。私は三年前、南岸の恒久水没にも、住民の自発的移転にも同意しておりません」


 議場の張り詰めた空気の中、私は王室調整局の資料を卓上に置き、まっすぐに王太子を見据えた。


 フェリクス殿下は、資料の注釈文と私の顔を交互に見比べ、やがて深く目を閉じた。


「……君の言う通りだ。君が、領民の不利益を隠蔽するような真似をするはずがない」


 殿下は目を開き、傍らに立つ近衛兵へ鋭く命じた。


「この王室調整局の資料は、協議の前提から外す。マティアス局長には、王都へ戻り次第、文書の作成経緯について厳しく問いただす」


 近衛兵が、配られた資料を一部ずつ回収していった。ミレーヌ嬢の質問机には、すぐに三人が並んだ。


「だが、リディア」


 殿下は苦渋の色を浮かべて私に向き直った。


「王国主導の協議は白紙に戻す。しかし、水門が崩壊するまでの『六十日』という期限は変わらない。四者が納得する合意を形成するためには、事実を整理し、公正な協議の場を設計できる人間がどうしても必要だ。王国として、君を正式に雇いたい」


「お断りいたします」


 私は即答した。


「私はレーヴェの聞き書き人です。私の名前を無断で使用し、文書を改竄した疑いのある王室調整局を抱える王国に、雇われるつもりはありません」


 殿下は短く息を吐き、それ以上は言わなかった。



 翌朝、市庁舎の執務室にいた私の前に、一枚の真新しい契約書が置かれた。


 持ってきたのは、王国からの使者ではなく、レーヴェ評議会の書記官長であるオスカーだった。


「王国が駄目なら、レーヴェ評議会があなたを雇います」


 オスカーが提示した契約書は、これまでに見たどんな依頼書よりも厳密に作られていた。


 業務内容は「南岸遊水地計画に関する協議設計および進行責任者」。報酬額、六十日という明確な期限、そして、中途辞任と解任の条件。


 何より目を引いたのは、次の項目だった。


『受任者は、いかなる案を採用するかの決定権(採決権)を持たない。ただし、全当事者の証言方法、公開する資料の範囲、および会議日程を決定する権限と責任を負う』


『万が一、受任者の手続き上の誤りによって当事者に不利益が生じた場合、受任者はその誤りを即座に公開する義務を負い、評議会は受任者を解任できるものとする』


 私は契約書から顔を上げ、オスカーを見た。


「私が結果を決めるのではなく、決めるための『手順』に責任を持つ、ということですか」


「そうです。そして、手順を間違えれば、あなたは自分の名前でその失敗を公開し、責任を問われます」


「なぜ、書記官長であるあなたが進行役を務めないのですか?」


 私が尋ねると、オスカーは姿勢を正し、静かな、しかし確かな声で答えた。


「私には、利益相反があるからです」


「利益相反……」


「私は、市街を守る案へ強く傾いています」


「理由を伺っても?」


「今は、うまく話せません」


 彼はそこで言葉を切り、契約書の利益相反欄へ自分の名を書いた。


「話せないまま、中立を名乗ることはできません」



 その日の夜。


 私は借りている小さな家の居間で、オスカーと共に夕食の食卓を囲んでいた。


 豆のスープと硬いパンという質素な食事だったが、冷え込む夜にはその温かさが何よりの御馳走だった。


「契約書は、まだ持ち帰ったままですね」


 スープを飲み終えたオスカーが、机の端に置かれた書類に視線を向けた。


「はい。一晩、しっかりと考えたくて」


 二百十八世帯の家。市街地の命。三十年の負担。


 どれを選んでも誰かが血を流す盤面を、私が自らの責任で整える覚悟があるのか。


「……オスカー。もし私がこの仕事を引き受けたら、六十日間、私は休む間もなく各所を駆け回ることになります。あなたと過ごす穏やかな休日は、なくなってしまうかもしれない」


 私が不安を口にすると、オスカーは困ったように笑い、そして私の手をそっと握った。


「三か月後の月初めを、空けておいてください」


「会議ですか?」


「結婚式です」


 私はパンをスープへ落としかけた。オスカーは、笑いを隠すように器へ口をつけている。


「まだ、お受けすると決めていません」


「ですから仮予定です。消すのは、いつでもできます」


 私は手帳を開き、三か月後の欄へ小さな丸をつけた。



 翌朝、市庁舎に出勤した私は、オスカーの机の前に立ち、持参した契約書を差し出した。


 末尾の署名欄には、『リディア・アーヴェル』という私の名前が、黒々としたインクで明確に記されている。


「おはようございます、オスカー書記官長。協議設計および進行責任者の件、お受けいたします」


 私が公的な口調で告げると、オスカーは立ち上がり、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。レーヴェ評議会を代表して、心より歓迎いたします。……それで、リディアさん。進行責任者として、あなたの最初の指示は何でしょうか」


 私は手帳を開いた。


「最初に、沈められる二百十八世帯の全員へ会います」

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