第35話 余白のある結婚式
「まず、この予定を二色に分けましょう」
オスカーは私の手帳を開き、赤と青の羽ペンを並べた。
ここは市庁舎の執務室ではなく、私が借りている小さな家の居間だ。
水門崩落の夜から二か月。町の再建と本格補修が進み、ようやく目前に迫った結婚式の取り決めに着手できた。
「結婚式の前日の夜に『漁師組合との来季水路の折衝』が入っているのはなぜですか。当日の朝六時に『聞き書き人養成所の一期生への最終講義』が組み込まれているのは?」
オスカーは、赤いインクで黒く塗りつぶされた予定表を指差した。
「それは、どちらも重要な案件だからです。漁師組合とは、水門工事中の代替航路について早急に結論を出さなければなりません。養成所の生徒たちも、独り立ち前の最後の確認を求めています」
私は至極真面目に答えた。「ですがご安心ください。式は午後からですから、午前中に公務を終わらせれば、スケジュールには十分に余裕があります」
「こなせるかではなく、あなたが望んでいるかを知りたいんです。義務は赤、希望は青で印をつけませんか」
彼に促され、私は赤と青のペンを交互に持ち替えた。
漁師組合との折衝。赤。
養成所の講義。赤。
市庁舎での来月予算の事前承認。赤。
三つとも赤だった。
「漁師組合との折衝は、来週に延期できます。講義はエルナへ任せられますね」
「予算の承認は、財務主任の決裁です。私が事前に確認する必要はありません」
私は自分で三本の線を引いた。
「結婚式の前日まで、公務へ明け渡す必要はありません」
オスカーは、私の目を見つめて、はっきりと告げた。
私は、彼の言葉に少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じながら、青いインクのペンを握り直した。
「……わかりました。では、私の希望を書きます」
私は、式の前日の午後から、当日の午前中にかけての時間を、大きく青いインクで囲んだ。
『湖畔を二人で散歩する時間』
『二人だけで、温かい豆のスープを食べる時間』
『誰の依頼も受けず、ただ、明日のことを話す時間』
「これで、どうでしょうか」
私が書き込んだ青い予定を見て、オスカーはふっと目尻を下げ、満足そうに頷いた。
「私も、同じところを空けます」
予定の調整が一段落すると、私たちは続けて、招待客の名簿と、式の後の具体的な生活条件についての話し合いに移った。
「招待客は、市庁舎の同僚たちと、漁師組合、それから南岸の三村の代表者たちですね。料理は、先日試食した白身魚の香草焼きと肉のパイをメインに。……王都のアーヴェル侯爵にも、招待状は届いているはずです」
私が名簿を確認しながら言うと、オスカーは少しだけ緊張した面持ちになった。
「侯爵閣下は、私のことをどう思っておいででしょうか。王太子妃候補だった娘を、地方の書記官長風情が娶ることを、快く思っていないのでは……」
「父は、そんな小さなことで怒る人ではありません」
私は、先日父から届いた私信を思い出しながら微笑んだ。
「父は、『仕事ではなく、結婚を祝いに行く』と言ってくれました。ですから、堂々としていてください」
オスカーはほっと息をつき、名簿の確認を終えた。
「さて。式の話はこれで決まりとして……一番重要な、これからの生活の話です」
オスカーは居住まいを正し、私に向き直った。
「私は、あなたに仕事を辞めて家庭に入ってほしいとは思いません。レーヴェには、あなたという『聞き書き人』が必要です。……ですが、姓はどうしますか? ハルト姓を名乗ることに抵抗があるなら――」
「いえ、私の名前は変わりません」
私は即答した。
「私はこれからも『リディア・アーヴェル』として、このレーヴェの町で働き、永久市民としての責任を負います。結婚したからといって、私が私の名前で選んだ仕事を手放す理由にはなりません」
「……ええ。それがいい」
オスカーは、合意書の姓の欄へそのまま書き写した。
「では、住む家はどうしましょうか。私の今の借家では少し狭い。……市庁舎の近くに、少し前に空き家になった手頃な物件があります。庭に小さな果樹があって、向かい合って座れる大きな机を置くには十分な広さです」
「代金は、お互いの収入から同額を出して、共同名義で買いましょう。家事は、その週の忙しさを見て分けます」
私が条件を提示すると、オスカーは「異議なし」と即座に同意した。
「これで、すべての条件は整いましたね」
私は、青と黒のインクで彩られた進行表と、生活の合意書を綺麗に束ねた。
「ええ。あとは、当日を待つだけです」
オスカーが、安堵したように微笑んだ。
七日後。
私たちが待ち望んだ、結婚式の朝がやってきた。
晴れ渡った冬の空の下、レーヴェの湖畔にある小さな礼拝堂には、市庁舎の職員や漁師たち、そして南岸の村人たちが集まっていた。
私は、先日オスカーと一緒に選んだ、湖よりも少し明るい青絹のドレスを身に纏い、控室で式の開始を待っていた。
その時、控室の扉が控えめにノックされた。
「先生……入っても、いいですか?」
扉の隙間から顔を覗かせたのは、クララに手を引かれた、あの小さな娘だった。
彼女は、少し恥ずかしそうにもじもじしながら、私のもとへトコトコと歩み寄ってきた。
彼女の首には、あの『古い家の鍵』が、真新しい革紐に通されて、大切なお守りのようにぶら下がっている。
「先生、これ」
娘は、背中に隠していた小さなブーケを、両手で私に差し出した。
それは、湖畔に咲く野花を不格好に束ねた、手作りの花束だった。




