第34話 私がいなくても決められる
「リディア先生! 先週引き受けた小規模案件の件ですが、当事者双方の合意が取れました。これが決定書です」
市庁舎の執務室に、補助聞き書き人として正式に採用された一期生のエルナが、書類の束を抱えてやってきた。
水門崩落の夜から、すでに二か月が経過している。水門修繕組合は夜番を組み、六十日の工期を数日残して第一段階を終えていた。
南岸の三村では、壊れた家の再建と、期間貸与する農地への杭打ちが進んでいた。
「見せてください、エルナさん」
私は彼女から決定書を受け取り、目を通した。
それは、隣町の商人組合と運送ギルドの間で起きていた、新しい荷馬車の通行ルートを巡る小規模な対立案件だった。
迂回路の距離、荷解きの遅れ、両者の署名。必要な欄は埋まっている。
「確認を一つ。荷解きが遅れた日の扱いは」
「三日以内なら運送側、それを超えたら商人側の負担です。両方の欄に署名もあります」
エルナは誇らしげに胸を張り、私に向かって深く一礼した。
「次の案件も、私に任せてください。……先生がいなくても、ちゃんと決められるようにしますから!」
私はもう一度書類を見ようとして、手を止めた。
「ええ。頼りにしていますよ、エルナさん」
私が微笑むと、彼女は嬉しそうに執務室を駆け出していった。
「リディア」
執務室の奥から、オスカーが私を呼んだ。
彼の手には、王家の封蝋が押された一通の手紙が握られていた。
「王都の、アーヴェル侯爵から手紙が届いています」
私は手紙を受け取り、封を切った。
父からの手紙は、かつてのように私に王都への帰還を促したり、有益な縁談を持ちかけたりするようなものではなかった。
そこに記されていたのは、簡潔な事実と、たった一つの私信だけだった。
『リディアへ。
お前が残していった三百二十七件の保留案件のうち、長期調査を要していた最後の六件について、昨日、全ての担当大臣と関係各所による正式決裁が完了したことを知らせておく。これで、お前が残した書類はすべて、正当な権限を持つ者たちの手によって処理された』
私は、最後の一行をもう一度読んだ。
残り、零件。
手紙の結びには、父らしい不器用な筆致で、こう付け加えられていた。
『今度は仕事の依頼ではなく、お前の結婚を祝いに行く。……ドレスに合う真珠の首飾りでも見繕ってやろう』
「お父様からの手紙ですか?」
オスカーが、私の背中越しに尋ねてきた。
「はい。……王都に残してきた仕事が、完全に終わったという知らせです」
私は手紙を胸に抱きしめ、深く息を吐き出した。
「これで、王都の保留はなくなりましたね」
オスカーは、優しい声で言った。
「ええ。どこへでも行けます」
私は立ち上がり、オスカーの机の上に置かれていた、一枚の真新しい書類を手に取った。
「だから私は、自分の意思で、ここに留まることを選びます」
それは、レーヴェ評議会が発行する『永久市民登録書』だった。
登録書の裏には、投票権、納税、防災当番、公開陪審への参加義務が並んでいた。
「侯爵令嬢の身分と、二重に義務を負うことになります」
オスカーが確認した。
「読みました」
私は迷うことなく羽ペンを取り、登録書の署名欄に『リディア・アーヴェル』と書き入れた。
「さて、オスカー」
私は登録書のインクを乾かしながら、手元の分厚い革の手帳を開いた。
「仕事の件はこれで終わりです。次は、こちらの『進行表』の確認をお願いします」
私が彼に突きつけたのは、七日後に迫った私たちの結婚式の、分刻みで緻密に組み上げられた進行表だった。
「……リディア。これ、結婚式の予定ですよね?」
オスカーは、進行表を覗き込んで呆れたような顔をした。
「なぜ、式の前日の夜にまで『漁師組合との折衝』が組み込まれているんですか。それに、当日の朝も『聞き書き人養成所の講義』が入っている。……あなたは、自分の結婚式まで仕事のプロジェクトの一環か何かだと思っているんですか?」
私は、真面目な顔で反論した。
「どちらも重要な案件です。それに、これでもかなり余裕を持たせて調整したつもりなのですが」
オスカーは進行表を奪わず、赤と青のインクを一本ずつ並べた。
「家へ持ち帰りましょう。どれが義務で、どれがあなたの望みか、二人で分けたいです」




