第36話 二人の名前で選ぶもの
湖畔を吹き抜ける風は冷たかった。
クララの娘から野花の花束を受け取った時、彼女の胸元で二つの鍵が鳴った。
彼女の首にかけられた真新しい革紐の先で、二つの真鍮の鍵が触れ合い、チリンと澄んだ音を立てていたからだ。
「その鍵……一つは、あの古い家のものですね」
私が花束の礼を言いながら屈み込むと、後ろから歩いてきたクララが、穏やかな笑顔で頷いた。
「はい。古い家の鍵と、新しい家の鍵です」
そう言ってクララは、もう一つのピカピカに光る新しい鍵をそっと撫でた。
「畑の杭も打ち終わりました。狭くなりましたけど、村に残れます」
南岸の三村には、まだ濁流の跡が残っている。
遠くからは、今日もカンカンと石を打つ重い音が響いてくる。水門修繕組合が進める、本格補修工事の音だ。
「先生。お時間です」
真新しい淡い水色のワンピースを着たエルナが、控室に声をかけにきた。
私はクララ親子と手をつなぎ、控室を出て、湖畔の小さな礼拝堂へと向かった。
祭壇の前では、オスカーが待っていた。
仕立ての良い濃紺の礼服に身を包んだ彼は、太陽の光を反射してきらきらと輝く湖面を背にして、少しだけ緊張した面持ちで私を見つめている。
参列席には、市庁舎の同僚たち、漁師組合の荒くれ者たち、商人たち、そして三村の住民たちが、身分や立場の壁を越えて入り混じり、笑顔で私たちを迎えてくれた。
広場の端には、町で一番の食堂の女将たちが腕を振るった、香草で焼かれた白身魚や、熱々の肉のパイが山のように用意されている。力仕事をしている漁師や修繕組合の男たちも、今日ばかりは泥を落とし、美味しそうに葡萄酒の樽を開けて待ってくれている。
そして最前列には、王都から長旅を経て駆けつけてくれた父、アーヴェル侯爵の姿があった。
父は少しだけ目を赤くし、私と目が合うと一度だけ頷いた。
控室で渡された真珠の首飾りには、仕事の依頼書も侯爵家の紋章も添えられていなかった。
小さな札に、「リディアへ。父より」とだけ書かれていた。
私はオスカーの隣に並び、二人で祭壇に向き直った。
神父の言葉に続き、私たちは誓いを交わした。
「助けられない日は、隣にいます」
オスカーは、私の手を力強く握りしめ、まっすぐな瞳で告げた。
「私が助けを求める日も、隣にいてください」
「はい」
私は、彼の大きな手を両手で包み込み、微笑み返した。
「私も、あなたの答えを代わりに決めません。迷う日は、二人で迷いましょう」
誓いの後、神父から婚姻の証明書が差し出された。
立会人として進み出たエルナが、少しだけ手を震わせながら、証人欄へ署名した。
そして、私とオスカーに二本の羽ペンが渡される。
私は迷うことなく、漆黒のインクで『リディア・アーヴェル』と書き入れた。
隣では、オスカーが力強い文字で『オスカー・ハルト』と署名する。
二つの名前が並んだ証明書を、神父が掲げた。
その瞬間、参列席から割れんばかりの拍手と歓声、そして口笛が沸き起こった。
「リディア」
オスカーが、熱を帯びた声で私の名前を呼んだ。
彼の手が私の腰に回り、強く、しかし壊れ物を扱うような優しさで、私を彼の胸の中へと引き寄せた。
濃紺の礼服越しに、彼の大柄な身体から伝わってくる、力強くて安心できる鼓動の音。私はそっと背伸びをし、彼の首に腕を回した。
冬の澄み切った青空の下。たくさんの愛する人たちの祝福の輪の真ん中で、私たちは顔を寄せ合い、長い口づけを交わした。
歓声と、二つの鍵が触れる小さな音が聞こえた。
式のあとは、白身魚と肉のパイが両方並んだ。
オスカーが先にパイへ口をつけ、熱さに目を見開く。
「進行表に、冷ます時間がありませんでしたね」
「そこは余白です」
私は笑いながら、水の杯を渡した。




