第32話 自分の負担へ署名する日
八つの空白を前に、議場は水を打ったように静まり返った。
補助聞き書き人である十九歳のエルナが、一枚の紙を手に進み出た。
「署名前に、得るものと負うものを一行ずつ読みます」
「第一に、セレスタ王国の代表」
エルナの声に応じ、フェリクス殿下がゆっくりと歩み出た。
殿下は、自らが持参した『王家狩猟地を赤く消した地図』を卓上に置き、手渡された羽ペンを握った。
「王国は市街と国境流域の安全を得る。狩猟地と修繕費を負う」
フェリクス殿下が、最初の欄へ署名した。
王太子印の赤い蝋が、消された狩猟地の上へ重なった。
「第二に、ローデン公国の代表」
隣国の代表が、自国の乾期における取水量を制限する『水量札』をことりと置いた。
「公国は下流決壊を避ける。乾期の取水制限と補償基金を負う」
二番目の欄が埋まる。
「第三に、レーヴェ評議会」
オスカーが、書記官長として前へ出た。彼の手には、市民へと配られる『臨時税の告知書』が握られている。
「レーヴェは三村と市街の存続を得る。臨時税と公開監査を負う」
オスカーが署名した。
「第四に、市街低地住民の代表」
市街地の代表が、真鍮の『避難鐘』を震える手で置いた。
「低地住民は長期の防災を得る。六十日の危険と避難訓練を負う」
代表は鐘を一度だけ鳴らし、震える字で四番目へ署名した。
「第五に、漁師組合の代表」
屈強な漁師が、使い込まれた太い『係留縄』をドンと置いた。
「漁師は湖の独占を避ける。工事中の航路停止を負う」
「縄が乾くまでの辛抱だ」
漁師は太い指でペンを持ち直し、五番目を埋めた。
「第六に、商人組合の代表」
商人の代表が、小さな『通行料証』を丁寧に置いた。
「商人は三十年の独占契約を避ける。三年間の上限付き通行料を負う」
六番目。
「第七に、水門修繕組合の代表」
泥だらけの作業着を着た技師が、緻密に計算された『工程表』を広げた。
「修繕組合は正式契約を得る。工期、品質保証、遅延賠償を負う」
七番目。
そして、最後の八番目の署名欄。
「最後に、南岸三村の住民代表」
前に進み出たのは、広大な土地を持つ地主ではなかった。
色あせた粗末な服を着た、借地農民のクララだった。彼女の足元には、古い家の鍵を首から下げた娘がしっかりと寄り添っている。
クララは、濁流の泥がこびりついた『農地の杭』を卓上に置いた。
決定書には、地主と耕作者の双方が同意した区画一覧が添付されている。クララは土地所有者ではなく、生活を失う側の代表として選ばれていた。
「三村は強制移転を免れる。一部農地の期間貸与を負う」
クララは羽ペンを受け取り、少し不格好な、しかし力強い文字で、最後の八番目の欄に自らの名前を書き入れた。
「これで、畑を貸す年も終える年も、紙に残りますね」
「残ります」
エルナが答えた。
クララは、署名欄の下にある三年後の再審査日まで確かめてから、ペンを置いた。
八つの欄が埋まった。
私の名を書く欄は、どこにもない。
「……進行責任者として、確認いたしました」
私は進行役としての確認印を、決定書の余白へ押した。
「これより、八主体の合意に基づく新たな水門補修と遊水地計画を正式に発効します」
八人は笑っていなかった。
それでも、誰も署名を隠さなかった。
「王都より、緊急の公文書をお持ちいたしました!」
重厚な扉が開き、王家の紋章をあしらった外套を着た使者が、厳粛な足取りで議場へと入ってきた。
使者の手には、先日の監査認定に基づく、ある人物への『正式な処分状』が握られていた。
使者は、処分状を開いた。




