第31話 誰も無傷ではない案
「緊急導水路と仮補修は持ち堪えました。ですが、これはあと数か月の猶予を得たに過ぎません」
泥と疲労で顔を黒くした水利技師が、仮組みした石壁の図面を広げた。
「冬の嵐には耐えません。それまでに、遊水地と水門補強の両方が必要です」
豪雨と決壊の夜から数日。
水が引き始めたレーヴェの町は、泥の片付けと家屋の修繕に追われていた。三村の住民たちは高台の教会に身を寄せながら、泥に浸かった畑を見下ろして途方に暮れている。
私は進行責任者として、市庁舎の議場に集められた八つの主体の代表たちを見渡した。
私は、卓上に大きな図面を広げた。
「三村だけを恒久水没させる案は無効です。ここからは、八者それぞれの負担を確認します」
卓上には八つの品を置いた。
狩猟地を消した地図。水量札。臨時税の告知。避難鐘。係留縄。通行料証。工程表。泥のついた農地の杭。
黒板にも、八行だけを書く。
王国は狩猟地と修繕費。公国は乾期の取水制限と補償基金。評議会は臨時税と公開監査。低地住民は六十日の危険。漁師は航路停止。商人は三年の通行料。修繕組合は工期と品質保証。三村は一部農地の期間貸与。
議場は静まった。
「……ひどい案だ」
市街地の代表が、ぽつりとこぼした。
「俺たちは鐘の音に怯え続け、漁師は船を出せず、商人は金を払い、村の連中は畑を水に沈める。誰も笑って喜べる案じゃない」
私は一度頷いた。
「喜んで署名できる案ではありません」
「貸すのは、何年ですか」
クララが農地の杭を持ち上げた。
「三年で再審査。終える時の土壌復旧費は、王国と評議会が負担します」
書記官が条項へ追記した。
「船が出せない間、うちの若い連中を修繕で雇えるか」
漁師の代表が、工程表を指した。
「土嚢積みと資材運搬なら」
修繕組合の代表が答え、雇用人数を書き加えた。
「通行料には上限を」
商人の代表が言った。
オスカーが上限額を読み上げ、三年間は引き上げないと記した。
市街地の人間は、三村の農民たちが差し出した杭を見た。
村の人間は、市街地の人間が怯えながら鳴らす避難鐘を見た。
漁師は商人の通行証を、隣国は王国の地図を見た。
「……文句を言っても、水は止まらねえからな」
漁師の代表が、係留縄を机に叩きつけるように置いた。
「俺たちが三十年間、民間会社に湖をふん縛られるよりはマシだ。船が出せない間は、修繕組合の土嚢積みでも手伝って稼がせてもらうさ」
「こちらも、三年間の通行料なら我慢しよう。三十年もふんだくられる不平等条約に比べれば、安い保険だ」
商人の代表が続いた。
私は、彼らの顔を一人ずつ確認し、進行責任者として最後の書類を卓上の中央へと滑らせた。
「これが、最終の決定書です」
分厚い羊皮紙の末尾には、王国から水門修繕組合まで、関係するすべての当事者のための『八つの署名欄』が、等間隔に並んでいる。
「利益と負担の両方を確認した方だけ、ご自身の名で署名してください」




