第30話 鍵を持って待っていた
「原本を」
私は、封をした非公開名簿をエルナから受け取った。
証言者保護のため、市庁舎の地下金庫へ移した原本だ。季節労働者の聞き取りには、作業場所と寝泊まりする小屋も記されている。
三人の名を見つけた。
「南の村東端、古い橋のたもとの資材小屋です」
漁師が顔色を変えた。
「一番低い場所だ。道はもう使えない」
私は湖岸図へ小屋の位置を書き込み、救助船の船長へ向けた。
「水路は」
「正面からは無理だ。果樹園の排水路なら、浅底船が一隻通れる」
オスカーが別の地図を重ねた。
「第二救助船を回します。市街低地の残りは、三村の二隻で足ります」
「俺が行く」
漁師が図を掴んだ。
「見つけたら、鐘を。無理なら戻ってください」
私は救助対象の欄へ、クララと三人の名を書き加えた。
船が闇へ消えたあとも、市庁舎には報告が入り続けた。
「第二船、果樹園水路へ入りました!」
伝令が叫んだ。
私はクララの娘を市庁舎の内側へ連れて行こうとした。けれど娘は、桟橋の見える柱から動かなかった。
両手で鍵を包み、暗い湖を見つめている。
五分。
十分。
雨で対岸は見えない。
十二分を過ぎても、合図はなかった。
娘の親指が、鍵のぎざぎざを何度もなぞっていた。
十五分。
私は次の避難報告へ印をつけた。手を止めれば、あの一隻だけを待ってしまう。
「合図!」
見張り台の鐘が鳴った。
「四名を確認。帰路へ入ります!」
私は救助欄の空白へ、鉛筆で細い丸をつけた。インクの印は、本人を見てからにする。
その間にも、市街低地から負傷者が運ばれてきた。私は医師のいる収容所を割り当て、空いた船を次の区画へ回し、果樹園水路だけは帰路のために空けた。
やがて、暗い水面に一つの灯りが現れた。
浅底船の舳先で、漁師がカンテラを二度上げる。
船底には、季節労働者三人が毛布にくるまり、その隣でクララが船べりを握っていた。
「お母さん!」
船が桟橋へ触れる前に、娘が駆け出した。
「ごめんね……寂しい思いをさせて、ごめんね」
クララは船から降り、泥だらけの腕で娘を抱きしめた。
娘は泣きじゃくりながら、自分の首から下げていたあの『古い家の鍵』を、小さな両手でクララの手に押し付けた。
「お母さん……私、家を置いてこなかったよ。鍵、ちゃんと持ってたよ」
クララは鍵を握り、娘の額へ頬を寄せた。
「持っていてくれたのね」
私は船長から四人の名を聞き、鉛筆の丸をインクでなぞった。
夜明けまでに、負傷者十一名。全壊または居住不能の家屋三十七棟。共同倉庫一棟と、収穫前の畑が水に浸かった。
死者と行方不明者の欄だけが、空白のまま残った。
オスカーが、泥で汚れた椅子へ腰を下ろした。
私も隣へ座り、二人で空白を見た。
「この欄は、埋めずに済みました」
「ええ」
窓の外で、雨脚が少しずつ弱くなっていた。
机の端には、八つの署名欄が空いたままの決定書が置かれていた。
水は引き始めても、期限は止まっていない。




