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第29話 水が来る

夜の帳が降りたレーヴェの町に、狂ったような雨音と、非常鐘のけたたましい音が響き渡っていた。


「北水門の残部が崩落しました! 緊急導水路にも濁流が回っています!」


 ずぶ濡れの伝令が市庁舎に飛び込んだ。


「各区の防災長に伝達! これより事前計画に基づく緊急避難を開始する!」


 オスカーが、書記官長としての権限を行使し、喉が裂けんばかりの声で指示を飛ばした。


「低地住民は東の丘陵へ! 逃げ遅れた者がいれば、躊躇せずに家財を捨てて命を優先させろ!」


 私は、南岸三村二百十八世帯の名簿を机に広げた。


「リディア先生、南の村の状況が入りました!」


 補助聞き書き人として正式に雇用したエルナが、漁師組合からの伝書鳥の筒を握りしめて駆け込んできた。


「村の家屋の半分がすでに床上まで浸水しています! でも、村の人たちは高台の教会に避難を始めているとのことです!」


「急いで確認を。足の悪い老人や、赤ん坊を抱えた家庭の所在は?」


 私は、名簿の該当箇所を指でなぞった。


 その時、市庁舎の窓の外から、信じられない光景が目に飛び込んできた。


 暗闇と豪雨の中、無数のカンテラの灯りが、南岸の村からレーヴェの市街地へ波をかき分けて進んでくる。


「……あれは、三村の漁船?」


 フェリクス殿下が、窓枠に手をついて驚きの声を上げた。


「俺たちの船に乗れ! 老人と子供を先に乗せろ!」


 船の上から、三村の漁師たちの声が響く。舳先には泥のついた農具と、救助用の長い縄が積まれていた。


「俺たちが家財を運ぶ! 荷物はこっちに預けろ!」


 市街地の高台に住む若者たちは、南岸へ向けて大八車を押していった。


「オスカー! 三村の船を、市街低地の第二便へ入れます!」


「了解しました! 各船の定員と、収容先の教会の空き状況を照合します!」


 私が名簿に印をつけ、エルナがそれを伝達し、オスカーが次の指示を出す。


 避難表の空欄が、一つずつ埋まった。


 市街地の低地住民は東の丘陵へ、三村の住民たちは高台の教会へ移っていく。


「先生! 南の村の避難名簿、ほぼ全員に確認の印がつきました!」


 エルナが、雨と泥にまみれた報告書を手に飛び込んできた。


「残るは、最後に村を出た救助船の一隻だけです。それに乗っている人たちの名前が確認できれば、全員の無事が確定します!」


 私は大きく息を吐き、最後の名簿のページを開いた。


 そこには、クララと、彼女の幼い娘の名前がある。


「最後の船が、船着場に到着しました!」


 外からの報告を受け、私とオスカー、そしてフェリクス殿下も市庁舎の広場へと駆け下りた。


 雨は少しだけ勢いを弱めていた。


 暗い水面から、漁師組合の大きな救助船が、ゆっくりと桟橋に横付けされる。


 船の上には、ずぶ濡れになりながらも、毛布にくるまって震える村人たちの姿があった。


「クララさん!」


 私は、船を下りてくる人々の中に彼女の姿を探した。


 だが、見当たらない。


 代わりに、毛布にくるまれた小さな女の子が、漁師の腕に抱き抱えられて下船してきた。


 クララの娘だ。彼女の首には、あの古い家の鍵がしっかりと握りしめられている。


「おねえちゃん……」


 娘は私を見ると、泣きはらした目をこすった。


「あなたのお母さんは? 一緒に乗っていなかったの?」


 私が尋ねると、娘は小さく首を横に振った。


「お母さん、船に乗らなかったの」


「乗らなかった……? どうして!」


 私が漁師に問い詰めようとした時、漁師が重々しく口を開いた。


「クララは、名簿に載っていない連中を呼びに戻ったんだ」


「名簿に、載っていない?」


「あいつの畑の隣に、収穫期だけ流れ込んでくる、季節労働者の小屋があるだろう。彼らは村の正式な住民じゃないから、役所の名簿には名前が載ってない。だから、非常鐘の意味もわからず、小屋で寝こけてるかもしれないって……」


 私は名簿の余白を見た。二百十八世帯の外に、三人がいる。


「クララは、この子に鍵を預けて、自分は村に残った。『私が必ず連れてくるから、先に行け』って」


 漁師の言葉に、私は自分の手の中にある名簿を強く握りしめた。


 最後の船は、もう岸を離れていた。

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