第28話 王太子が、自分の名で取り消す
水利技師は期限表の「残り二十三日」へ横線を引き、その下に「一日」と書いた。
「……フェリクス殿下」
王国の担当大臣が、A案の決定書を持ち上げた。
「これなら今夜にも発動できます。文書の問題は、災害後に審理するべきです」
「第四案は、まだ八者の意思確認を終えていません」
マティアスは穏やかな声で続けた。
「殿下。まず市街を守ってください。三村の移送先と借地人の救済は、その後に整えます」
「その『後』を、誰の名で約束する」
フェリクス殿下が尋ねた。
マティアスは一拍置いた。
「私が」
私は、フェリクス殿下を見た。
フェリクス殿下は、マティアスを見据えた。
「遅い」
ミレーヌ嬢が、殿下の隣で頷いた。
殿下は、マティアスが提出した赤い地図と、私の名前が勝手に使われたあの『立ち退き通知』を手に取った。
「私は、王国を代表する王太子として、ここに宣言する」
「王室調整局長マティアス・ヴェルナーが作成した、この公文書の改変、ならびに元王太子妃候補リディア・アーヴェルの名義無断使用、および安全地図の意図的な操作を、王家の名において公表し、これを全て無効とする!」
「殿下、王家の威信が損なわれます」
大臣が止めた。
「その責任も、私の名で公表する」
殿下は懐から、王太子の正式な印章を取り出した。
「マティアス・ヴェルナー。お前を本日付けで王室調整局長から罷免する。同時に、お前の手にある調整局の職印を、今すぐこの場で返還しろ。お前の行った文書偽造については、災害対応が終了し次第、王国法に基づいて厳重に審理する」
マティアスは懐から赤い職印を取り出した。
「遅延の責任まで、私へ負わせるおつもりですか」
「いいや。それは私が負う」
職印が、卓上へ置かれた。
近衛兵がすぐさまその職印を回収し、彼を両脇から固めた。
さらに殿下は、民間会社との間で作られていた『仮契約書』の破棄証明書にも、自らの名前で署名した。
「この仮契約も無効だ。民間会社に三十年もの間、湖を独占させるような真似はさせない」
赤い地図、立ち退き通知、仮契約書の三枚へ、順に『無効』の印が押された。
「無効になった理由も、一緒に掲示してください」
ミレーヌ嬢が書記官へ言った。
「印だけでは、また『王都が気を変えた』と書き換えられます。名義冒用と改変を、住民が読める言葉で」
フェリクス殿下は頷き、王国側の書記官二名へ命じた。
一人は調整局の原本庫を封印するため、もう一人は無効通知の写しを作るために走った。
マティアスの職印は、透明な証拠箱へ入れられ、王太子印で封じられた。
だが、安堵している時間は一秒もなかった。
外からは、すでに大粒の雨が窓ガラスを激しく叩きつける音が聞こえ始めている。
「リディア。オスカー書記官長」
殿下が、厳しい顔つきで私たちに向き直った。
「不正は正した。だが、水が来る事実に変わりはない。……どうする。この期に及んで、まだ『誰もが無傷ではない第四案』のために、八者もの同意をまとめるつもりか?」
「ええ」
オスカーが、迷いのない声で答えた。
「ですが、まずは人命です。協議の結論を出す前に、水が来ます。今夜は、レーヴェの全力を挙げて、住民を避難させなければなりません」
「その通りです」
私は、手元にある分厚い名簿の束――クララたちから集めた、二百十八世帯の生活の記録を抱え上げた。
「殿下。避難名簿の王国側連絡欄をお願いします」
フェリクス殿下は、すぐに名簿を受け取った。
その直後。
雷鳴とともに、北の湖の方角から、前回とは比べ物にならないほど巨大な地鳴りが響き渡った。
市街地の広場に設置された非常鐘が、狂ったように鳴り始める。
非常鐘が、二度、三度と鳴った。




