第27話 誰か一人が嫌われれば済む
「私への監査認定は、不当なものです」
公開合同会議の場に現れたマティアス・ヴェルナーは、監査認定書を机へ置いた。
「私は図面を変え、アーヴェル嬢の記録を使いました。通常の承認を待てば、工事開始まで四か月。水門は待ちません」
マティアスは赤い地図を広げた。
「狩猟地の転用には、王家財産の用途変更と国庫負担の議決が要る。南岸三村なら、既存の移転規定で進められる。二百十八世帯と、市街の数万。私は短い方を選びました」
彼の言葉に、議場は水を打ったように静まり返った。
クララたち三村の住民は怒りに震えていたが、市街地の住民たちの中には、マティアスの「最短で救える」という言葉に、わずかに同調の色を見せる者もいた。
市街の傍聴席から、「四か月は待てない」と声が上がった。
クララの隣では、娘が古い鍵を握っている。
「移転する私たちには、全員、補償が出るのですか」
クララが尋ねた。
マティアスは答えるまでに、卓上の資料を一枚めくった。
「現行規定では、土地所有者が対象です。借地人については移転後の救済措置を検討する予定でした」
「いつですか」
「水門対策の決定後です」
クララはそれ以上言わず、娘の鍵へ手を重ねた。
「マティアス」
フェリクス殿下が口を開いた。
「なぜ、自分の名で緊急決定を上げなかった」
「局長一人の名では、各省が止めます。アーヴェル嬢の調整済み案件なら、説明を繰り返さずに済んだ」
マティアスは私を見た。
「あなたは、反対が出る場所を知っていた。あなたの記録を使うのが、最も早かった」
「マティアス局長」
私は進行席から静かに立ち上がり、彼の目を見据えた。
「南岸三村を選んだのは、あなたですね」
「私です」
「立ち退き通知に、あなたの名はありません」
マティアスの口が、わずかに開いた。
「調整記録には、あなたの名がありました」
「調整した者の名です。決めた者の名ではありません」
私は赤い地図の脇へ、立ち退き通知を置いた。
「私が嫌われたことではなく、決めたあなたの名がなかったことが問題です」
議場は静かだった。
やがて、市街の商人が口を開いた。
「私は三村を沈める案に賛成しかけた。だが、俺の名もなかった」
漁師組合の男が続いた。
「通行料を払うのは俺たちだ。C案にも、俺たちの欄はなかった」
私は第四案の比較表を開いた。
八つの負担欄は、まだ空白だった。
「第四案を、正式な審議へ移します。空欄を埋めるのは、私ではありません」
「殿下! フェリクス殿下!」
会議の終了と同時に、王室の伝令が議場に飛び込んできた。
その顔は、ただ事ではない恐怖に引き攣っている。
「どうした、騒々しい」
フェリクス殿下が怪訝そうに立ち上がる。
「北の山岳地帯から、早馬の急報です! 季節外れの巨大な低気圧が接近しています。明日の未明から、北湖一帯に記録的な豪雨が降るとの警報が……!」
その言葉に、議場の全員が凍りついた。
水利技師が、真っ青な顔で私の隣に駆け寄ってきた。
「先生、駄目です! 豪雨が来れば、残った水門も持ちません。六十日どころか、明日の夜には……残部が崩れます!」
開け放たれた扉から、雨の匂いを含んだ風が吹き込んだ。




