第3話 助けなくてよい町
返す言葉がなかった。
男性は私の足元の衣装箱へ目をやり、片方を持ち上げた。
「宿をお探しでしょう。これは手伝えます。私はレーヴェの書記官長、オスカー・ハルトです」
「リディア・アーヴェルと申します。ですが、荷物は自分で」
「持てますか」
「……一つなら」
「では一つずつ持ちましょう」
彼は私から全部を取り上げるのでも、意地を張る私へ戻すのでもなく、本当に一つだけ持った。
翌日、私は公開集会を傍聴した。
宿屋側は桟橋の修繕費を公開し、漁師側は月ごとの水揚げを示した。値上げそのものは必要だと全員が認めたが、負担の分け方で意見が割れた。
怒号も飛んだ。宿屋の主人は机を叩き、漁師組合長は椅子を蹴った。
それでも、オスカーは代わりに答えを出さなかった。
「通年同額にする案。漁獲量に応じて変える案。市の予算から一部を出す代わりに、観光船にも使用料を課す案。どの負担なら、皆さんは自分の名前で賛成できますか」
話し合いは昼までかかった。
最後に彼らは、冬季の漁船料金を下げ、不足分を観光船の使用料で補う案を選んだ。誰も満面の笑みではなかった。それでも、決定書には当事者たち自身が署名した。
「不満が残っていても、決められるのですね」
集会後、私は誰もいなくなった議場でつぶやいた。
議事録を束ねていたオスカーが、眼鏡の位置を直した。
「不満のない決定を待っていたら、桟橋のほうが先に沈みます」
「王都では、全員を説得し切れなければ、調整不足だと言われました」
「ここでは、反対した者の意見も記録します。決定することと、反対者を黙らせることは別ですから」
胸の奥で、何かがほどけた。
同時に、空いた場所へ不安が入り込んだ。
「私は、何をすればよいのでしょう」
オスカーはしばらく私を見たあと、一枚の用紙を差し出した。
「昨日、二人の主張から争点を拾ったのは見事でした。レーヴェには、当事者の話を記録し、選択肢と負担を整理する『聞き書き人』がいます。今、一人足りません」
用紙には、試用期間十日、担当一件、勤務は日没まで、報酬は銀貨十二枚と書かれていた。決定権を持たないこと、追加業務には双方の合意が必要であることまで明記されている。
「まだ、お引き受けするとは申しておりません」
「ええ。ですから、持ち帰って読んでください。返答期限は三日後です」
「今、決めなくてもよいのですか」
「契約は、急がせた側だけが得をします」
私は用紙を受け取った。
仕事を頼まれる前に、その仕事を断る権利まで渡されたのは、初めてだった。
三日後、私は署名した契約書をオスカーへ渡した。
本当は二日目には、引き受けたいと思っていた。
けれど私は、三日間すべてを使った。断った場合に誰が困るかではなく、自分がその仕事をしたいかどうかを考えるために。
最初の依頼は、共同井戸の水を巡る争いだった。
乾季を前に、商店街は朝から昼までの優先使用を求め、染物工房は夜明けから水を汲ませてほしいと主張していた。
「商店街の飲食店が水を使えなければ、旅人に食事を出せません」
「こっちは布を洗えなきゃ、その日の仕事そのものがなくなるんだ!」
市庁舎の小部屋で、双方の代表が机を挟んでにらみ合った。
私は持参された数字を確認した。
井戸が一日に汲み上げられる量。飲食店と染物工房が必要とする量。雨期までの日数。
単純に人数で割れば、商店街へ六、工房へ四。
生業への影響で考えるなら、朝は工房、昼前から商店街。けれど商店街の火災用水まで考慮すると――。
「必要量は揃いました。今日はここまでにして、明日、使用時間の案を――」
進行記録を取っていたオスカーが、会合を閉じようとした。
「お待ちください」
私は書きかけた配分表から顔を上げた。
数字だけを見ているとき、商店街の代表はずっと指で袖口をこすっていた。工房主は怒鳴りながらも、後ろに座る若い職人たちを何度も振り返っていた。
「水が足りなくなることで、何を失うのがいちばん怖いのでしょう」
二人とも、すぐには答えなかった。
先に口を開いたのは商店街の代表だった。
「三年前の乾季に、裏通りで火事があった。消火用の水まで使われたら、また同じことになる」
「飲食店の営業だけではなく、火災がご不安なのですね」
「そうだ。客が減るのも困るが、店が焼ければ終わりだ」
工房主は、太い腕を組んだまま床を見た。
「うちは、朝に布を洗えなきゃ染めの工程へ進めない。休業が続けば、徒弟から切るしかない。そいつらは、やっと仕事を覚えたところなんだ」
欲しいのは、井戸を長く使ったという勝利ではなかった。
商店街は火事から町を守りたい。工房主は若い職人の仕事を守りたい。
私は新しい紙の中央に線を引いた。
「確認できた事実と、考えられる選択肢を記します」
井戸の使用時間を交互にする案。
工房が早朝に使い、商店街が火災用水を別に確保する案。
双方が費用を出し、湖水をためる貯水槽を共同で造る案。
それぞれに、得るものと負担するものがある。貯水槽は今季の乾燥に間に合うが、両者に追加費用が発生する。共同管理の人手も必要だ。
「あなたは、どれが正しいと思うんだ」
商店街の代表に尋ねられ、答えが喉まで出かかった。
王都であれば、ここからが私の仕事だった。
相手の性格を読み、どこまでなら負担させられるかを考え、不満が私一人へ向くように話を組み立てる。
けれど契約書には、私の仕事が書かれていた。
事実と争点と選択肢を記録すること。
決めることではない。
「私が正しい案を決めるのではありません」
「それじゃあ、何のためにいる?」
かつての私なら、その問いを責められたように感じただろう。
私は紙を二人の中央へ置いた。
「皆様が、何を守るために、どの負担を選ぶのか。それを隠さずに決めるためです」
話し合いは三日続いた。
最終日、双方は早朝の使用時間を工房へ譲り、商店街が管理する火災用水には手をつけないと決めた。さらに費用を半分ずつ出し、乾季用の貯水槽を造ることになった。
双方が追加費用を負担し、工房は貯水槽の清掃にも人を出す。どちらも、欲しいものをすべて得たわけではない。
それでも署名を終えた工房主は、若い徒弟たちへ向かって言った。
「仕事は切らん。代わりに、貯水槽造りも手伝えよ」
歓声が上がった。
私は胸をなで下ろし、そのあとに奇妙な空虚さを覚えた。
私が決めたわけではない。私が誰かを説得したわけでもない。
「私は、役に立てたのでしょうか」
片づけをしていたオスカーが、書類から顔を上げた。
「ええ。私にも、足りないものを教えてくれました」
「あなたに?」
「私は会議を予定どおり進めることに気を取られ、水を時間と量だけで分けるところでした。あなたは、二人が口にしていない恐れを見つけた」
オスカーは、完成した決定書を持ち上げた。
「そのうえで答えを渡さなかったから、彼らは自分で約束を守る理由を持てました。あれは、私一人ではできなかった仕事です」
「何も決めていないのに」
「決める力を奪わなかった。それが聞き書き人の仕事です」
役に立つとは、誰かの代わりに答えを出すことだけではない。
そのことを、私はまだ胸のどこへ置けばよいのかわからなかった。
わからないまま、その夜、宿で二十枚の追加資料を作った。
貯水槽の管理当番案。費用の徴収時期。完成が遅れた場合の井戸使用表。頼まれてはいなかったが、先に用意しておけば皆が困らずに済む。
朝、市庁舎で束を差し出すと、オスカーは最初の一枚だけを見て、私へ返した。
「受け取れません」




