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第2話 返却書に、答えは書かない

三百二十七件は、一夜で生まれた数字ではない。


 私が十六歳で会議の事前調整を任されてから六年。決裁者が意見の対立を収められないたび、書類は「追加の聞き取りを」と私の執務室へ戻ってきた。


 最初は七件だった。翌年には三十八件になった。それでも私は、自分が引き受けなければ困る人がいると思った。


 実際、困っている人はいた。


 だからこそ、決められる者が決めなければならなかったのだ。


 婚約解消の合意書が整うまでの十二日間、私は返却書を作った。


 鉱山事故の補償。


 昼間の女性の顔が浮かんだ。事故原因について確認された事実。王家、領主、鉱山組合で費用を分ける三案。各案で遺族が受け取れる額と、採掘再開までの期間。決裁者は鉱山大臣と領主。


 続く紙には、東西どちらの村へ堤防を築くか、下級騎士の遺族年金を恒久化するかを記した。地形は水利官が、財源は財務官が調べている。私がしたのは、専門家の説明と、選択によって生じる負担を一枚の紙へ並べることだけだ。


 私は、誰が決めるのか、何がわかっているのか、どの選択で誰が利益を得て、誰が負担するのか、いつまでに決めなければ何が起きるのかを書いた。


 ただ一つ、書かなかったものがある。


 私ならどれを選ぶか、という答えだ。


「ご推奨案の欄が空白ですが」


 確認に来た鉱山監督官が、不安そうに尋ねた。


「補償額の根拠を示すのは、事故原因を調べた監督官と費用を算出した財務官です。どの負担を選ぶかは、結果を引き受ける決裁者がお決めになります。私は、そのどれでもありません」


「ですが、いつもはアーヴェル様が組合と遺族を説得してくださったでしょう」


「私は話を聞き、条件を整理しただけです。今回は、その記録をすべて添えました」


「では、どの案を選べば」


「それを決める権限のある方へ、ご説明ください」


 監督官は戸惑っていた。けれど、やがて書類を抱え直し、小さくうなずいた。


「……承知しました。私が、調査と試算の根拠を説明します」


 彼には、初めからそれができたのだ。


 私はその背を見送り、次の箱へ手を伸ばした。


 指先が封蝋に触れたところで、何をしようとしていたのかわからなくなった。


 眠っていないせいではない。眠る前にも、同じことが起きるようになっていた。食事を選ぶだけで、厨房の手間と残り物の量と父の好みを順に考えてしまい、結局「皆と同じで」と答える。


 何も決めなくてよい休日が、いちばん苦しかった。


「まだ戻る道は残せる」


 執務室の扉口で、父が言った。


 アーヴェル侯爵である父は、私が作った返却書の箱を見渡し、誇らしそうに、それから少しだけ困った顔をした。


「王国顧問として正式な地位を求めればいい。お前ほど働ける者を、王家も捨て置けまい」


「戻る道があれば、私は呼ばれます」


「当然だ。必要とされるのは名誉なことだろう」


「そして私は、また応じます」


 父の眉が寄った。


「応じてはいけないとわかっていても、困る方がいると言われれば、きっと応じてしまうのです。ですから今は、道を残さないでください」


「お前は昔から責任感の強い子だ。私はそれを誇りに――」


「お父様」


 遮った自分の声に、私自身が驚いた。


「今は、働ける娘だと褒めないでください」


 父は口を閉じた。


 長い沈黙のあと、返却書ではなく私の顔を見た。


「……どこへ行くつもりだ」


「母の故郷だったレーヴェへ。半年分の部屋を借りました」


「そこで何をする」


「まだ、決めておりません」


 それを口にするだけで、ひどく心細かった。


 けれど父は、今度は仕事を提案しなかった。


「そうか」


 短く答え、箱を運ぶ侍従を呼んだ。


 婚約解消が正式に公示された日、三百二十七件の返却書は受領印と引き換えに王家へ渡った。


 私が侯爵邸から持ち出したのは、衣装箱二つと、本が一箱。それに母が遺した、湖を描いた小さな絵だけだった。


 幼いころから仕えてくれた侍女長が、馬車の前で私の手を包んだ。


「お嬢様。どうか、お役目ではなく、ご自分のために眠ってくださいませ」


 私は大丈夫だと答えかけた。


 それが彼女を安心させる正解だと思ったからだ。


 けれど、やめた。


「眠れるようになりたいわ」


「はい」


 侍女長は泣き笑いの顔で、私の手を離した。



 湖畔自治都市レーヴェに着いた日、私は宿へ入る前に他人の争いへ口を出した。


「今年から船着場の使用料を二倍にするなんて、勝手すぎる!」


「修理費を払わないくせに、桟橋だけ使わせろと言うのか!」


 湖から吹く風の中、宿屋の主人と漁師組合の男が怒鳴り合っていた。周りでは荷運び人や客が足を止めている。


 私は荷物を持ったまま、二人のあいだへ進み出た。


「失礼いたします。使用料を上げたい理由は、桟橋の修理費でしょうか」


「あ、ああ。そうだが」


「漁師組合が反対するのは、漁獲量が落ちる冬にも同じ額を負担する点ですか」


 男は目を丸くした。


「そうだ。春から秋なら、まだ払える」


「でしたら、季節ごとに料金を――」


「そこまでです」


 穏やかな声が、私の言葉を止めた。


 赤みのある茶髪の男性が、人垣を分けて歩いてきた。簡素な灰色の上着に市章の留め具をつけ、丸眼鏡の奥から私を見ている。


「お二人とも、続きは明日の公開集会で。修理費の帳簿と、組合の漁獲記録を持ってきてください」


「しかし、書記官長――」


「道を塞いだまま決めれば、あとで聞いていない者が出ます。今日は荷物を運びましょう」


 二人はまだ言い足りなさそうだったが、彼の言葉には従った。


 人が散ってから、私は男性へ頭を下げた。


「差し出がましいことをいたしました」


「本当に」


 あまりに迷いのない返事だったので、顔を上げてしまった。


「あなたの整理は的確でした。だからこそ危険です。皆は、もっともらしい案を出したあなたに従ってしまう」


「解決できるなら、そのほうがよいのではありませんか」


「あなたは桟橋の所有者ですか。漁師組合の代表ですか。それとも、評議会から調停を任された方ですか」


「どれでもありません」


「なら、あなたには決めた結果の負担を引き受けられない」

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