第1話 三百二十七件、お返しします
※短編「婚約破棄、承りました。では、王家が決めずに私へ押しつけた三百二十七件の未決案件を、すべてお返しします 〜「灰色の悪役令嬢」は、もう誰かの代わりに嫌われません〜」の連載版です。
第6話までは同内容ですので、短編を読んだ方は第7話からお読みください。
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「この、人殺し!」
鉱山事故で夫を亡くした女性が、補償決定書を私の胸へ叩きつけた。
「これでは冬まで暮らせません! あの人は王家の鉱山で死んだのに!」
決定書の署名欄には、鉱山大臣と領主の名があった。私の名はない。
けれど、遺族へ金額を伝え、怒りを受け止めるために請願室へ立っていたのは、私一人だった。
「おっしゃるとおり、この額では十分ではありません」
「なら、なぜ決めたのです!」
「私には決定権が――」
「言い訳までなさるの? この冷酷な悪役令嬢!」
付き添いの女性に支えられ、泣きながら請願室を出ていく彼女へ、私は頭を下げた。
彼女を、責める相手を間違えたと非難する気にはなれなかった。決めた者が姿を見せず、決めていない私だけを窓口に立たせたのだ。
その日の夜。
「リディア。君との婚約を解消したい」
十一年続いた関係は、たったそれだけの言葉で終わった。
王城の小会議室では、窓を打つ雨音と、壁際に立つ書記官のペンが止まった音まで聞こえた。
向かいに座るフェリクス殿下は、私をまっすぐ見ていた。逃げずに話そうとしていることだけはわかる。けれど、膝の上で組んだ指は、白くなるほど強く絡んでいた。
「ミレーヌ・ロッシュ嬢を愛しておられるのですね」
「……ああ。彼女といると、息ができるんだ」
では私といるときは、息ができなかったのだろう。
胸の奥に鈍い痛みが広がった。けれど私はいつものように、その痛みより先に、次の手順を探した。
国王陛下への報告。両家の合意書。王太子妃教育の終了日。私に与えられていた執務室と入城許可証の返納。
「承りました」
私が答えると、殿下の肩が目に見えて下がった。
「そうか。ありがとう、リディア。君ならわかってくれると思っていた」
わかってくれる。
十一年のあいだ、何度その言葉を聞いただろう。
「ただ、婚約と政務は別の話だ」
続いた言葉に、私は顔を上げた。
「君には今後も、王国の相談役として僕を支えてほしい。地位については父上とも話す。これまでと同じように、各省から上がる案件を整理し、皆が納得できる案を――」
私は机の端に置かれた黒革の台帳へ目を落とした。
今朝、最後に数字を確かめたばかりだ。
「三百二十七件です」
「何が?」
「現在、私の執務室に置かれている保留案件の総数です。婚約解消が正式に成立した日をもって、すべて王家と各決裁者へお返しいたします」
殿下は瞬きをした。
「返す? 待ってくれ。急に返されても困る。せめて結論案だけは、今までどおり君が作ってくれないか」
「どなたのお名前で決定なさいますか」
「それは、案件ごとに父上や大臣が――」
「では、その方々がお決めになるべきです」
「だから、その前の調整を頼みたいんだ。君が反対する者を説得し、全員が受け入れられる形にしてくれれば、署名はできる」
全員が受け入れられる決定など、ほとんど存在しない。
堤防を築く場所を選べば、守られない村ができる。鉱山事故の補償を増やせば、誰かが費用を負担する。遺族年金を恒久化すれば、新しい税が必要になる。
私は事実を集め、選択肢を作った。反対者の怒りを聞き、決裁者が署名できるところまで負担を減らした。
決定が歓迎されれば王家の功績となり、歓迎されなければ、窓口に立った私が「血も涙もない灰色の令嬢」と呼ばれた。
今日もそうだった。決裁書には大臣と領主の名があったのに、遺族の怒りを受けたのは私だった。
私は弁解しなかった。不満を受け止めるのも将来の王妃の務めだと、教えられていたからだ。
「殿下。私は一度も、決める権利をいただいておりません。ですから、決める責任も、本来は私のものではありません」
「責任を放り出すと言うのか」
「いいえ。私のものではなかった責任を、本来お持ちの方へお返しするのです」
「しかし、君がいなければ、誰が決める?」
「印章をお持ちの方が」
書記官が息を呑んだ。
殿下はしばらく何も言わなかった。やがて、困り切ったように眉を下げた。
「一度、落ち着いて考えてくれないか」
私はいつも、返事をする前に正解を探してきた。
相手を怒らせず、誰も困らせず、自分がもう少しだけ耐えれば済む答えを。
けれど、その夜は探さなかった。
「考えても、私の答えは変わりません。お引き受けいたしません」




