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第25話 役に立たない日も、隣にいたい

空は重い鉛色の雲に覆われ、冷たい風が湖から吹き付けていた。


「明日から長雨になるそうです。北水門の亀裂も、雨水を吸ってさらに数ミリ広がったと報告がありました」


 開発会社が資材を引き揚げるまで、残り十五日だった。


「第四区の土嚢の手配は終わったか。低地住民の避難経路は、東の丘へ向かう第二ルートも確保しておけ。もし夜間に水門が決壊した場合の、非常鐘の当番表は……」


 オスカーは執務机にかじりつくようにして、次々と指示を飛ばし、羽ペンを走らせていた。


「オスカー、少し休んでください。あなたはここ数日、まともに睡眠を取っていないでしょう」


 私が温かいお茶を差し出しても、彼は血走った目を書類から離そうとしなかった。


「休んでいる暇はありません。長雨が降れば、十五日を待たずして水門が落ちるかもしれない。私が計画に穴を空ければ、数万の市民が……」


 彼の大きな身体が、ぐらりと力なく傾いた。


「オスカー!」


 私が慌てて駆け寄るより早く、彼は崩れ落ちるように床に膝をついた。乱れた書類がバサバサと床に散らばる。


「……申し訳、ありません。少し、立ちくらみが……」


 彼は荒い息を吐きながら、震える手で床の書類を拾い集めようとした。その顔は土気色で、額には脂汗が滲んでいる。完全に過労の限界を超えていた。


 私は散らばった書類を拾い上げ、彼の机の上で綺麗に束ね直した。


「リディア、その書類を……明日の朝までに、各区の長に届けなければならないんです」


 懇願するように手を伸ばすオスカーの前で、私は執務室の扉を開け、外に控えていた市庁舎の職員たちを呼んだ。


「この避難経路の策定は、都市計画課の主任へ。土嚢と仮設テントの手配は、防災課へ回してください。それぞれ、今日の夕刻までに状況を報告するように」


 職員たちが書類を持って足早に去っていくのを見届けた後、私はオスカーに向き直った。


「レーヴェ評議会に対し、書記官長の二日間の休務を申請しました。すでに受理されています。あなたは今日と明日、公務から外れます」


「休務……? 馬鹿な、私が抜けたら誰が最終の確認を――」


「私がやります、と言いたいところですが、私にはこの町の行政権限はありません。各課の責任者が、自分たちの名前で確認と決裁を行います」


 私は、呆然とする彼の腕を引き、無理やり立ち上がらせた。


「以前、あなたが私に言ってくださった言葉です。助けられることと、今夜引き受けるべきことは別です」


「……私は」


 オスカーは抵抗する力を失い、ぽつりとこぼした。


「私は、何もできていない。故郷の危機に、こんなところで倒れて……ただの、役に立たない男だ」


「役に立たなくて結構です」


 私は彼の背中に手を回し、支えるようにして歩き出した。


「休んでください、オスカー。続きは、夕食のあとに聞きます」



 その日の夜、私は彼を自分の借りている小さな家に連れ帰り、夕食を作った。


 外では、予報通りに冷たい長雨が降り始めていた。窓ガラスを打つ雨音が、水門への重圧を連想させて不安を煽る。


 温かい豆のスープと、焼きたてのパン。ただそれだけの、静かな時間。


 オスカーは無言でスープを口に運び、やがて深く、長く息を吐き出した。


「……塩が、少し多いですね」


「倒れた方には、そのくらいで結構です」


「よかったです」


 私は温かいお茶を彼の前に置いた。


「リディア」


 オスカーが、少しだけ潤んだ目で私を見た。


「私は、あなたに頼ってばかりです」


 私は、彼の大きな手を両手で包み込んだ。


「『依頼する案件が一つもない日でも、一緒に食事をしたい』――そう言ってくださった言葉を返します。役に立たない日も、あなたの隣にいたい」


 オスカーは目を見開き、やがて笑った。


「……あなたには、敵いませんね」


 彼は私の手を握り返し、その温もりを確かめるように額を押し当てた。


「ありがとうございます、リディア。この二日間は、大人しくあなたの言葉に従います」


 翌朝。


 オスカーを家で休ませ、私は一人で市庁舎の執務室へと向かった。


 雨はまだ降り続いている。机上の日付は、水門崩落と開発会社の資材引き揚げまで「残り十五日」を示していた。


 私は、オスカーが昨日まで整理しかけていた過去の案件記録の棚に向かった。


 彼が不在の間、必要な資料を各課に引き継ぐためだ。


 棚の奥には、王都とのやり取りを記した古い分厚いファイルがいくつか並んでいた。


 その中の一冊を引き抜こうとした時、背表紙に書かれた文字が私の目を引いた。


『案件番号:三百二十七番』


 三百二十七件。


 あの時、私はすべての書類を王室に返却したはずだった。だが、ここにあるのは、レーヴェ評議会が保管していた『三百二十七番目』の案件の写し綴りだ。


「三百二十七番……確か、北湖周辺の土地権利に関する事前調査の案件……」


 私は嫌な予感を覚え、その写し綴りの紐を解き、中身をパラパラとめくった。


 そこには、三年前の私の手書きの調査記録の写しと、王室調整局とのやり取りが収められていた。


 そして、その綴りの一番最後。


 一枚の小さな紙片が、書類の間に挟み込まれているのを発見した。


 それは、市庁舎の文書係が記入した、公文書の受理と変更の履歴を記録する『職印使用記録』だった。


 私はその紙片に書かれた文字を読んだ。


『日付:婚約解消成立の三日後』


『処理内容:王室調整局長マティアス・ヴェルナーの直接指示により、現行安全地図の再交付、および関連する事前調整記録の文言変更を実行。これに伴い、当該文書に王室調整局長の職印を使用』


 末尾には、文書係の署名が残っていた。

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