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第21話 沈まない村、無傷ではない町

「俺たちの家を沈める前に、あの王家の森に水を逃がす案を協議してくれ!」


「王家が所有する広大な狩猟地を、第一の遊水地へ転用する。そうすれば、二百十八世帯の家屋と墓地は沈まずに済みますね」


 私は手帳を開き、彼らの言葉を書き留める準備をした。


「そうだ! 誰も住んでいない森があるのに、なんで俺たちが追い出されなきゃならないんだ!」


「でも、先生」


 群衆の先頭に立っていたクララが、一歩前へ出て、真剣な眼差しで私を見た。


「私たちも、王様にだけ痛い思いをしろって言いたいわけじゃないんです」


 彼女の言葉に、広場が少しだけ静まった。


「もし、あの森が一番に水を被ってくれるなら……私たちも、畑の一部を『期間限定の遊水地』として貸し出します」


 クララの指には、土が入り込んでいた。その畑を差し出すという。


「もちろん、地主の許可がない畑は勝手に貸せません。だから、土地の所有者と私たち耕作者の、両方が同意した区画だけを使ってもらうんです」


 クララは、背筋を伸ばしてそう言い切った。


「その案なら、現実的に可能です」


 広場の隅で図面を広げていた水利技師が、泥だらけの顔を上げて口を挟んだ。


「王家の森と、村の同意区画。この二つに水を分散させれば、一気に町が沈むことはありません。ただし、それだけでは水圧を制御しきれない。古い北水門の危険部分だけを、六十日間かけて先行して修繕する必要があります」


「六十日間で……直せるのですか?」


 オスカーが鋭く問うと、技師は力強く頷いた。


「全面修繕には数年かかりますが、危険な箇所だけの補強なら六十日でやれます。ですが、書記官長。この『第四案』は、決して魔法の解決策ではありません。全員が無傷で済むわけではないのです」


 技師は、広場に集まった人々を厳しい目で見渡した。


「王国は狩猟地と修繕費を失います。村は期間中の農地を失います。そして市街地の住民は、先行修繕が終わるまでの六十日間、いつ決壊するかわからない恐怖に耐えなければならない。さらに工事期間中は航路が塞がるため、漁師も商人も損をする。……関係する八つの主体すべてが、自分の身を切る負担を受け入れなければ、この案は成立しません」


 私は彼らの言葉を、手帳に清書した。


 発案者の欄には「三村住民」、技術条件の欄には「水利技師」と書いた。



 その日の夜。


 窓の外から冷たい夜風が吹き込む中、私とオスカーは、市街地の裏通りにある小さな食堂のテーブルに向かい合って座っていた。


 テーブルの上には、香草で焼かれた白身魚、熱々の肉のパイ、そして色鮮やかな果実を煮込んだ温かいスープが並べられている。


「さあ、お二人とも。遠慮せずに食べておくれ。三か月後の結婚式で出すなら、どの料理がいいか忌憚のない意見を聞かせてほしいからね!」


 食堂の女将が、私たちのグラスに葡萄酒を注ぎながらウインクをした。


「……この白身魚の香草焼き、絶品ですね。外の皮はパリッとしていて、中はふっくらとしている」


 オスカーが魚を口に運び、ふっと表情を緩めた。昼間の、張り詰めた書記官長の顔ではない。ただの一人の青年としての、穏やかな笑顔だった。


「肉のパイも好きです」


 私は熱い中身で舌を焼き、言葉の最後だけ小さくなった。


 オスカーが水の杯を差し出した。


「進行責任者にも、苦手な議題がありましたね」


「これは議題ではありません」


「結婚式には、市庁舎の同僚たちや、漁師組合の人たちも呼びましょう。この肉のパイなら、力仕事をしている彼らも絶対に喜んでくれるはずです」


「そうですね。養成所のエルナさんたちも、きっとたくさん食べてくれるでしょう」


 結婚式が終わった後、どんな家に住むか。オスカーは「お互いが仕事の書類を広げても、向かい合って座れる大きな机が欲しい」と言い、私は「でも、食事の時だけは書類を片付けて、花を飾る約束にしてほしい」と返した。


 女将は、私たちが魚とパイのどちらを選ぶか決める前に、両方出すと献立へ書き込んだ。



 翌朝。


 市庁舎の執務室で、住民発の第四案を正式な議題とするための合同会議の準備を進めていた私の前に、一枚の冷たい通達書が置かれた。


 持ってきたのは、監査中のマティアスと、下流の決壊を恐れる隣国・ローデン公国の代表だった。


「リディア嬢。あなたが住民たちの意見を集約し、新しい案を作ってくれたことには敬意を表します」


 隣国代表の男は、丁寧な口調で要求を読み上げた。


「ですが、隣国である我々が、自国の乾期の取水制限という『負担』を受け入れるためには、その根拠となる住民の合意が、確かなものであるという保証が必要です。どこの誰とも知れない『匿名の声』だけを根拠に、国家間の水利条約を変更することはできません」


「隣国代表の言う通りです」


 マティアスが続けた。


「土地を持たない借地農民たちが、本当に農地の貸与に同意しているのか。それが一部の過激な者の捏造ではないと、どうして言い切れるのですか? 私たちは、彼らの声の存在を否定しているわけではありません。ただ、正式な合同会議を開催するための『条件』を満たしていただきたいのです」


 マティアスは、私の机の上に、一冊の分厚い白紙の束を置いた。


「会議開催の条件として、その匿名の声の主たちが誰であるのか、検証可能な『証言者名簿』の提出を求めます。村のどこに住む、誰が証言したのか。実名が記載された名簿が提出されない限り、我々はこの第四案を、議題としてすら認めません」


 証言者の名簿。


 私は白紙の束へ手を置かなかった。

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