第20話 私の名で結ばれた仮契約
仮契約書の末尾には、私が王都を去った二週間後の日付があった。
その六行上には、すでに失った肩書きが残っている。
「……あり得ません。なぜ、こんな記述が」
『本契約の条件(湖上通行料の徴収および三十年間の取水優先権)については、王太子妃候補リディア・アーヴェルによる事前合意済みであり、王家の保証とする』
「王太子妃候補、だと?」
私の肩越しに、オスカーが契約書を覗き込んだ。
「日付と肩書きが、同時には成立しません」
契約の欄外には、会社側の確認印があった。
私の古い肩書が、王家の保証として扱われている。
私は書類を鞄に押し込み、立ち上がった。
「フェリクス殿下にお会いします。この仮契約の執行を、今すぐ止めなければなりません」
レーヴェ市庁舎の応接室。
私はフェリクス殿下とミレーヌ嬢を前に、父から送られてきた仮契約書の写しを卓上に提示した。
「殿下。この仮契約書は、私が婚約破棄された後の日付で作成されています。しかし、内容には私の過去の肩書きが使われ、私が三十年の不平等条約に同意したことになっています」
フェリクス殿下は仮契約書を手に取り、その内容を読み進めるうちに、顔面を怒りで蒼白に染めていった。
「この契約を、私は決裁していない」
「殿下。私は、この仮契約における一切の合意を否定します。私の偽りの同意を根拠としている以上、この契約は法的に無効であるはずです」
「当然だ」
フェリクス殿下は卓上を強く叩いた。
「このような詐欺まがいの契約を、王国が認めるわけにはいかない。直ちにこの仮契約の執行を停止する。そして、現在出回っているすべての関連文書から、君の名義を完全に削除させる」
「フェリクス様。契約停止の理由を調べる者が必要です」
傍らに控えていたミレーヌ嬢が、凛とした声で進言した。
「王国監査官を動かしてください。調整局自身に調べさせては、同じ書庫を同じ者が確認することになります」
「わかっている。すぐに監査官を手配しよう」
殿下は力強く頷いた。
その直後、応接室の扉がノックされ、マティアス本人が入ってきた。
「殿下、誤解です。水門崩落の危機が迫る中、いち早く民間会社を動かすためには、王家の強い保証が必要だったのです。これは緊急時の、事務的な省略手続きに過ぎません」
「省略したのは、誰の承認だ」
「私です。工事を間に合わせるには必要でした」
「ならば、その名を書けばよかった」
「殿下、しかし――」
「王国は、この仮契約の執行を即時停止する。会社側の着工も許可しない。監査には、すべての原本を提出しろ」
マティアスは一礼した。
「承知しました。ただし、工期が失われた責任も、監査記録へお残しください」
「私の名で残す」
フェリクス殿下の返答に、マティアスは口を閉じた。
「リディア」
マティアスが退室した後、フェリクス殿下は私に向き直った。
「契約を止めた。だが、遅れた分は王家の責任だ」
「承知しました」
私は深く頭を下げた。
C案の資料には、赤い『執行停止』の印が押された。
しかし、止めた書類の下から新しい案が現れるわけではない。
私とオスカーが重い足取りで市庁舎の執務室に戻ろうとした時、窓の外の広場が騒がしいことに気がついた。
「なんだ、あれは」
オスカーが窓を開けると、広場には南岸の三村からやって来た数十人の住民たちが集まっていた。
彼らの先頭に立っているのは、クララをはじめとする借地農民たちだった。彼らの顔には、先日までの怯え切った表情はない。
「リディア先生! オスカー書記官長!」
広場から、クララが私たちに向かって大声で呼びかけた。
「聞きました! 昔の地図には、王家が持っている『誰も住んでいない森』が、遊水地の候補として書かれていたそうじゃないですか!」
老船大工の持ち込んだ旧地図の存在が、漁師たちを通じて村にも伝わったのだ。
「俺たちの家と畑を沈める前に、あの王家の森に水を逃がす案を考えてくれ!」
「そうだ! 俺たちだって、市街地の人たちを溺れさせたいわけじゃない。でも、一方的に俺たちだけが犠牲になるのは間違ってる!」
村人たちが口々に叫ぶ。
私は比較表のA、B、Cの隣に、新しい欄を引いた。
そこへ『三村住民案』と書いた。




