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第18話 消された王家の土地

老船大工が机に広げた三十年前の古地図。そこには、現在の地図では「空白の森」とされている王家所有の広大な狩猟地が、青いインクで囲まれ『第一遊水地候補』と明確に記されていた。


「技術的な理由で外されたのでしょうか」


 二つの地図を見比べても、答えは載っていなかった。


 現在の地図では、青い線は跡形もなく消え去り、代わりに南岸の三村が真っ赤に塗りつぶされている。


 王家所有の狩猟地は無人の森だ。地図どおり水を逃がせるなら、三村だけを恒久水没させる必要は薄くなる。


 ただし、三十年前と今とで地盤や水量が同じとは限らない。


「古い図面だと退けられますね」


 オスカーが言った。


「ええ。外した理由が必要です」


「証拠を揃えましょう。彼らが言い逃れできないだけの、事実の裏付けを」


 私は羽ペンを取り、王都にいる一人の人物宛てに手紙を書き始めた。


 宛名は、アーヴェル侯爵。私の父だ。


『お父様。突然の手紙をお許しください。現在レーヴェで進められている水没計画について、至急確認していただきたい過去の記録があります』


『私が三年前に行った事前聞き取りの原文と、現在の調整局が作成した要約文の照合をお願いします。また、安全地図から王家狩猟地が除外された経緯について、技術報告書が存在するかどうかの確認を求めたく存じます。侯爵家の権力で私を助けていただく必要はありません。ただ、改竄の事実を証明するための、正確な記録が必要なのです』


 手紙を封蝋で閉じ、早馬の使者に託す。


 水門崩壊のタイムリミットである六十日は、一日、また一日と削られていく。休む間もなく次の聞き取りに向かおうと席を立った私を、オスカーが静かに制止した。


「リディア。今日の午後は、予定を空けておく約束でしたよ」


「予定……? ああ」


 私は手元の進行表を見て、息を呑んだ。


 今日は、私たちが週に一度取ると決めていた、半日の休日だった。


「ですが、オスカー。今は一刻を争う時です」


「予約金を払ってあります」


 オスカーは私の手から進行表を優しく抜き取ると、私を促して市庁舎の外へと連れ出した。



 彼が私を案内したのは、レーヴェの市街地にある、古くから続く仕立て屋だった。


 店内に足を踏み入れると、真新しい木綿の香りと、色とりどりの絹やベルベットが目に飛び込んでくる。


「お待ちしておりました、書記官長。リディア様」


 恰幅の良い女主人が、満面の笑みで私たちを迎えてくれた。


「さあさあ、お二人の結婚式のための特別な生地を、たくさん仕入れておきましたよ!」


 結婚式。


 その響きに、私は思わず立ちすくんだ。


 六十日の期限が過ぎたあと、三か月後の月初めに仮決定した、私たちの式。そのための衣装の布を選びに来る約束をしていたのだ。


「さあ、リディア。どれがいいですか」


 オスカーは真剣な顔で、並べられた反物を吟味し始めた。


 純白の絹。銀糸の刺繍が入った柔らかなレース。そして、北の湖の水面を思わせるような、深く鮮やかな青色のベルベット。


 私が無意識にその青い布に指を触れると、オスカーがふっと目尻を下げた。


「それがいい。あなたの瞳の色によく似合います」


「オスカー……」


 女主人が、小さく咳払いをした。


「書記官長。それは帳場の椅子に使う布でございます」


 オスカーの手が止まった。


 私は、笑わないように青い布へ顔を寄せた。


「同じ色で、衣装用はありますか」


「もちろんです」


 女主人が出した薄い絹は、湖よりも少し明るかった。


「ええ。この青い布でお願いします」


 私は女主人に向かって、はっきりと微笑んで答えた。


 夕刻。


 仕立て屋から市庁舎の執務室に戻った私たちは、再び現実の戦いへと向き直った。


 ランプの火を灯し、老船大工が置いていった三十年前の地図を、もう一度細部まで確認する。


「リディア、ここを見てください」


 地図の隅を虫眼鏡で確認していたオスカーが、声を上げた。


「この地図は船大工組合が保管していたものですが、元々は王室調整局から交付された公式な写しです。そして、三年前に『新しい地図に更新するため』という名目で、古い地図はすべて回収され、破棄される手筈になっていました」


「老船大工は、回収される前にこれをこっそり隠し持っていたと言っていましたね」


「ええ。ですが、回収の通達が出た際、この地図の裏面には、すでに調整局による『無効印』が押されていました。見てください」


 オスカーに促され、私は羊皮紙の裏面を覗き込んだ。


 そこには確かに、『旧版につき無効』という黒いスタンプが押されている。


 だが、私を戦慄させたのはそのスタンプではない。


 無効印のすぐ隣に、赤い蝋で固められた見覚えのある職印が、はっきりと押されていたのだ。


「これは……」


「マティアス・ヴェルナーの職印です」


 オスカーが、冷たい声で事実を告げた。


 マティアスが持参した、三村を赤く塗った『現行地図』。


 そして、王家の森を青く囲んでいたこの『旧地図』の裏面。


 旧地図を消し去った職印と、現行地図を承認した職印。


 その双方に、同じマティアスの名が刻まれている。

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