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第17話 中立ではない書記官

 窓枠を握るオスカーの手は、白くなっていた。


「父は、私が九歳の時に洪水で死にました」


 水門が落ちたあの日、手すりから離れなかった白い指を思い出した。


「市街が沈む図を見ると、あの日の水が戻ってきます。だから私は、A案の数字を何度も見直した。村の名前を、世帯数に置き換えて」


 私は歩み寄り、窓枠に残った彼の手へ触れた。


「オスカー。私を見てください」


 私が呼びかけると、彼はようやく顔を上げた。


「A案を望んだことと、それを隠して進行したことは、分けましょう」


「ですが、私は書記官長です。公正であるべき立場の人間が、こんな偏った――」


「ええ。中立な進行役ではいられません」


 彼の指が、私の指を握り返した。


「それでも、私はあなたの婚約者でいてよいのでしょうか」


「その二つを、同じ欄へ書かないでください」


 オスカーは、泣きそうな顔のまま少し笑った。


 やがて顔を上げたオスカーは、赤く腫れた目元を拭い、深く息を吐き出した。


「……リディア。私は、協議の責任者から退くべきですね」


「いいえ、すべてから降りる必要はありません」


 私は首を振った。


「あなたがいなければ、この町の行政は回りません。ですが、水門の案を扱う会議においてのみ、あなたは進行役を外れてください。そして、なぜ進行を外れるのか、その理由を皆の前で公表してください」


「私の、市街地保護への偏りと、水への恐怖をですか」


「はい。責める方はいるでしょう」


 オスカーが目を瞬いた。


「それでも、公表してください。進行を外れる理由が必要です」


 オスカーはしばらく沈黙し、やがて、憑き物が落ちたような穏やかな顔で頷いた。


「わかりました。明日、公開集会の場で、すべてを話します」



 翌日、オスカーは四者の代表と住民たちの前に立った。


「私は、市街を守るA案へ傾いています。父を洪水で亡くした経験があり、中立な進行役ではいられません。本件の進行から外れます」


 市街側から「そこまで言わなくても」と声が上がった。


 三村側では、クララが黙ってオスカーへ頭を下げた。


 オスカーは進行役の札を外し、書記官席へ移った。


「待ってくだされ、リディア様。オスカー坊っちゃん」


 議場の後方から、しゃがれた、しかし力強い声が響いた。


 人垣を分けて進み出てきたのは、深く皺の刻まれた顔を持つ老人だった。


 かつて、私がこのレーヴェの町で聞き書き人としての試用契約を結んだ直後、「隣の工房が壊れた塀の修理代を押し付けてきた」と市庁舎に駆け込んできた、あの老船大工だ。


「じいさん、今は重要な会議の最中だぞ」


 漁師の一人が止めようとしたが、老船大工はそれを手で制し、まっすぐに私の前へと歩み寄った。


「あんたが、王都の新聞に喧嘩を売ってまで、嘘の文書を突っぱねてくれたって聞いた。だから、こいつはあんたのところに持って来るべきだと思ったんだ」


 老船大工は、小脇に抱えていた古びた革の筒を、私の机の上にゴトリと置いた。


 革の表面はひび割れ、長い年月、どこかの物置で埃を被っていたことがわかる。


「これは?」


 私が尋ねると、老船大工は筒の紐を解き、中から丸まった分厚い羊皮紙を取り出した。


 カビと古いインクの匂いがふわりと広がる。


「三十年前に、俺たち船大工組合が水路を引くために使っていた、レーヴェ周辺の安全地図だ。王家の役人が作った、正真正銘の公文書だよ」


 老船大工は、羊皮紙を机の上に広げ、四隅を重しで押さえた。


 そこには、現在のレーヴェと北湖、そして南岸の地形が精緻な筆致で描かれていた。


 オスカーが身を乗り出し、王室調整局のマティアスが先日提出してきた「推奨遊水地案」の新しい地図と、その古い地図を見比べる。


「……リディア」


 古い地図を見たオスカーの声が、微かに上ずった。


「この三十年前の地図には……現在の地図にはないものが描かれています」


 私も地図を覗き込み、息を呑んだ。


 マティアスが持参した新しい地図では、南岸の三村だけが「遊水地候補」として赤く塗られていた。


 しかし、老船大工が持ち込んだ三十年前の地図には、南岸の三村はただの農地として描かれている。


 その代わり、南岸のさらに東側――現在は「誰も立ち入らない空白の森」として処理されている広大な領域が、青い線で囲われ、『第一遊水地候補』と明記されていたのだ。


「この東の広大な森は……王家が所有する、無人の狩猟地ではありませんか」


 私が呟くと、老船大工が深く頷いた。


「その通りだ。昔は、水が溢れそうになれば、誰も住んでいないあの王家の森に水を逃がす計画だったんだ。それが、いつの間にか地図から消されちまってる」


 二枚の地図で、青い線の位置だけが違っていた。


「なぜ候補から外れたのか、技術報告を探します」


 現行地図の参照欄には、王家狩猟地を候補から外した技術報告の番号だけがなかった。

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