第15話 断れない文章を、同意と呼ばない
「賛成することしかできない紙なんて、同意とは呼ばないんじゃないですか?」
私は通知書の末尾を、もう一度確かめた。
同意の印を押す場所だけが、丁寧に枠で囲われている。
「……あなたの言う通りです、エルナさん」
私は、通知書を机の上に置いた。
「『自発的』なら、断る欄が必要です」
「エルナ・フォークさん」
私は姿勢を正し、目の前の漁師の娘をまっすぐに見つめた。
「あなたを、今日付けでレーヴェ評議会の『補助聞き書き人』として正式に雇用します。報酬は正規の規定に従って支払います。私の仕事を手伝ってくれませんか」
エルナは目を丸くしたあと、パァッと顔を輝かせた。
「はい! 私にできることなら、なんだってやります!」
「では最初の仕事です。この五枚にわたる王室調整局の通知書を、あなたがわかる言葉で、一枚の紙に書き直してください」
その日の夜、私たちは市庁舎の執務室に残り、ランプの明かりの下で通知書の翻訳作業を行った。
『本事業の公益性に鑑み、対象地域の居住者は別に定める特別補償と引き換えに、自発的移転に同意するものとする』
私が官僚の文章を読み上げると、エルナは羽ペンを握りしめながら首を傾げた。
「公益性って、要するにレーヴェの市街地を守るため、ですよね。特別補償って、地主にはお金が出るけど、クララさんみたいな小作人には一銭も出ないやつのことですよね」
「その通りです」
「じゃあ、こうですね。『市街地を守るため、借地人には一銭も払いませんが、自分から進んで家と畑を捨てて出ていきなさい』……うわあ、ひどい。こんなの、絶対にハンコなんて押せませんよ」
「そのまま書いてください」
『恒久的遊水地への転用』は『二度と住めない湖の底にする』へ。『権利関係の清算』は『地主にだけ金を払い、借地契約は強制的に打ち切る』へ。
夜明け前、五枚の公文書は一枚になった。
翌日、私たちは南岸の三村を回り、二百十八世帯の住民たちを広場に集めた。
地主たちは広場の端で腕を組んでいた。私はエルナに、書き直した説明書を読み上げさせた。
エルナのよく通る声が、村人たちの間に響き渡る。
『地主へ補償』『借地人は退去』と読み上げたところで、広場から物音が消えた。
「こちらが、同じ内容を短くしたものです」
読み終えたエルナの横に立ち、私は村人たちに向かって語りかけた。
「借地人への補償はありません。断る欄もありません」
「そ、そんな……」
群衆の中から、悲鳴のような声が上がった。
「じゃあ、俺たちはどうすればいいんだ! 地主の旦那たちには逆らえない。この紙にハンコを押さなきゃ、明日から畑に出ることも許されなくなるんだぞ!」
怯える村人たちに向け、私はあらかじめ用意しておいた小さな木の札を掲げた。
そこには、黒いインクで大きく『保留』と書かれている。
「この紙には、断る欄がありません。署名の代わりに『保留』を選べます」
「ほ、保留……?」
「はい。賛成とも反対とも書きません。『この条件では決められない』と返す印です」
村人たちはざわめいた。
群衆の最前列で、クララが震える手を胸の前で握りしめていた。
彼女の足元では、小さな娘が不安そうに母親を見上げている。クララは娘の頭を一度だけ撫でると、決意を込めた目で私を見つめ、まっすぐに歩み出てきた。
彼女は懐から、自分の名前が彫られた粗末な木印を取り出した。
そして、私が用意した名簿の「回答欄」に、自らの手で『保留』と書き込み、その横に印を押し当てた。
「……私は、保留します。娘と生きていくために、一銭の補償もなく家を捨てることには、同意できません」
クララの震える、しかしはっきりとした声が広場に響いた。
後ろで、木印を入れた袋の口が開く音がした。
「俺もだ! 俺も保留にする!」
「あんなふざけた紙に、同意なんかしてやるもんか!」
次々と村人たちが前に進み出た。
用意した名簿は、あっという間に二百十八世帯分の「保留」の文字で埋め尽くされていった。
地主代表が一歩出た。私の受理印を見て、足を止めた。
数日後。
私が市庁舎の執務室で次の会議の準備をしていると、血相を変えたオスカーが、一枚の新聞を手に飛び込んできた。
「リディア、これを見てください! 今朝、王都から届いた急行便の新聞です!」
彼が私の机に叩きつけたのは、王都で最も発行部数が多い大衆紙だった。
その一面には、扇情的な見出しが黒々とした活字で印刷されていた。
『灰色の令嬢、安全工事を妨害! 王太子妃の座を追われた腹いせか?』
私は息を呑み、記事の本文に目を走らせた。
『元王太子妃候補リディア・アーヴェルが、水門崩落の危機に瀕するレーヴェにおいて、王室が主導する安全確保のための遊水地計画を妨害していることが判明した。彼女は無知な村人たちを扇動し、同意書への署名を拒否させている。このままでは工事が遅れ、市街地に住む数万の民の命が危険に晒される。私怨によって多数の命を人質に取る彼女は、やはり血も涙もない「灰色の悪役令嬢」であった――』
記事には、情報源の名がなかった。




