第14話 補償される家、されない暮らし
地主代表は懐から封筒を取り出し、指先で軽く叩いた。
クララは娘を抱き寄せ、目を伏せた。
「補償金が規定どおり支払われるなら、我々は反対しない。借地人は別の働き口を探せばいい」
地主代表はそう言い捨てると、取り巻きたちを引き連れてクララの家から出て行った。
地主代表の封筒には補償額が書かれていた。
クララの通知には、退去日しか書かれていない。
「クララさん……」
私が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い絶望と諦めが渦巻いていた。
「先生。さっき、私たちのために比較表に項目を足してくれたこと、本当に感謝しています。でも……私たちは、会議の場で反対の声を上げることはできません」
クララは、眠ってしまった娘の背中を力なく撫でた。
「あの人たちに逆らって、もし水没案に反対したと知られれば、水門が壊れるのを待つまでもなく、明日には借地契約を切られます。家から追い出されて、明日食べる麦すらなくなってしまう。……私たちは、黙って追い出されるのを待つしかないんです」
「名前を出せば、報復されるのですね」
私が問うと、クララは小さく頷いた。
「わかりました。ならば、あなたの名前は出しません」
私は手帳を開き、公開用と非公開用の二つの欄を作った。
「会議では、お名前を伏せます」
「匿名で……私たちの声を取り上げてくれるのですか?」
「はい。原本は私が保管し、会議には村名と立場だけを出します」
私はクララの冷え切った手を両手で包み込んだ。
私は、先ほど追加した比較表の項目の下に、さらにもう一つの議題を力強く書き込んだ。
『補償対象の拡大。土地所有者だけでなく、生活基盤を失う借地人および季節労働者に対する補償の義務化』
クララは、書き加えた一行を指で追った。
「この『借地人』に、私も入るんですね」
「入ります」
その日の夕刻。
市庁舎の執務室に戻った私は、集めた聞き取りの記録を整理していた。
扉が軽くノックされ、「失礼します、リディア先生」と元気な声が飛び込んできた。
赤みのある髪を後ろで無造作に束ねた、十九歳の娘。
レーヴェの漁師の娘であり、私がオスカーと共に立ち上げた『聞き書き人養成所』の一期生、エルナ・フォークだった。
「エルナさん。今日の聞き取りの整理は終わりましたか?」
「はい! 漁師組合の意見はバッチリまとめておきました」
エルナは快活に笑うと、机の上の『立ち退き通知』へ目を留めた。
「先生、これって、村の人たちに配られたっていう紙切れですよね」
エルナは通知書を手に取り、指で一行ずつ追った。
「あの……私、難しい言葉はよくわからないんですけど。この紙、なんか変じゃないですか?」
「変、とは?」
私がペンを止めると、エルナは通知書の一箇所を指差した。
「ここに、『対象地域の住民は、特別補償と引き換えに自発的移転に同意するものとする』って書いてありますよね。自発的ってことは、自分から進んで移住するって意味ですよね?」
「ええ。国からの強制ではなく、あくまで住民の意思で移転する、という建前です」
「だったら、おかしいですよ」
エルナは不思議そうに小首を傾げた。
「自分から進んで決めることなら、『嫌だ』って断ることもできるはずじゃないですか。でもこの紙、どこを探しても、拒否するための印を押す欄がありません。賛成することしかできない紙なんて、同意とは呼ばないんじゃないですか?」
私は通知書を受け取り、末尾まで見直した。
同意欄はある。拒否欄はない。




