9.森の中にて
静謐な森の中だった。冷たい風が、立ち並んだ木々を通り抜けて、旅人たちを刺した。冬は今が本番なのだ。三人は、会話もなく、辺りに視線を配りながら、足早に森の奥を目指す。
「本当にこの方向にいるのか」
カモミールが小声で問う。
アールグレイは、肩越しに振り返り、頷いた。
「森に逃げ込んだことは間違いない。その後はどこに行ったか分からない」
カモミールは、緊張したように頷いた。二人より背後にいるダージリンは、辺りを見回し、一点に目を留めた。
森の葉の間。数十メートル先で、ガラスが光る。
否、こちらを向いたサングラスだ。
「隠れてください」
ダージリンが言い終わらないうちに、辺りに銃弾が数発降ってきた。
ダージリンは、右腰から自動式拳銃を素早く引き抜き、レンズを標的に、撃つ。
「っ……」
その後、ダージリンは木の裏に背中をつけ、左腕を押さえながら天を仰ぐ。僅かに刺客の銃弾が掠った。ダージリンは、腕の様子を確かめる。
大丈夫。腕は問題なく動かせる。
カモミールも、ダージリンの発砲とともに、木の裏に身を滑り込ませていた。
さらに数発が、辺りに降り注いだ。刺客からの攻撃だ。どれもが、周囲の草地をえぐり取る。
ダージリンは、銃弾の攻撃が止むとすぐに発砲。
刺客も、木に隠れている。身体の輪郭がやや木からはみ出す程度で、この距離では確実に仕留めることは不可能に近い。
近づくか。
いや、危険だ。
銃声と同時にダージリンが見ている方向に動きを認めていたアールグレイは、そちらの方向へと背を低めて走っていった。ほとんど物音を立てない。
「なっ、あいつ……」
カモミールが、アールグレイの動きに気づき、木から飛び出そうとするが、足下の土が銃弾によって舞ったのを見て、足を止める。
刺客の位置を知らせたら、他の二人に教える。
アールグレイが、森に入る前に言っていた言葉。
カモミールは眉間にしわを寄せた。
「それの何が作戦だよ。それからどうするかは、何も決まってないじゃないか」
カモミールは、身を屈めて反撃の機会を窺う。しかし、カモミールが持つ得物は、爆発物だ。投擲射程距離に入らなければダメージを与えられない。しかも、木々が投擲した爆発物を跳ね返してしまう危険もあった。投げた爆発物がこちら側に戻ってくれば、自爆してしまうかもしれない。危険すぎる。そもそも、爆発物は本来、投擲するような武器ではない。
カモミールには、今のところ、攻撃手段がなかった。ダージリンの射撃を見守り、刺客の動きを観察するくらいしか、できることがない。
ダージリンは、射撃を止め、弾を飛ばした一点をじっと見つめる。
「逃げられました」
ダージリンが、木陰に隠れるカモミールを振り返り、無表情で報告する。カモミールは頷く。
「アールグレイは追った」
「ええ」
「その傷」
カモミールは、ダージリンのコートの破れ目を見つめる。
ダージリンはかぶりを振った。
「問題ありません」
カモミールは頷いた。
「刺客はアールグレイを追ったのかもしれない。木がまばらだ。アールグレイが音を出さずに移動しても、刺客からは丸見えだ」
カモミールが、木陰から離れながら、分析する。
「動きでアールグレイの力量は掴めただろうに、どうして刺客はアールグレイを追ったんだ。刺客からしたら、アールグレイが一番厄介なはずだ」
「だからではないですか」
カモミールが、ダージリンの方を振り返る。普段と変わらないダージリンの無表情が視界に写った。
「強者に興味があるのでは」
「なるほどな」
カモミールが森の奥に向き直り、目を細めた。
「俺たちはなめられてるってわけだ」
ダージリンも森の奥へと顔を向ける。広葉樹の間に、二人以外の影は見えない。足音さえも聞こえなかった。
「敵とアールグレイは見つかるか」
「いえ、どちらも視認できません」
二人の間に僅かな間沈黙が流れる。
「アールグレイは大丈夫だろうけど、どうする」
カモミールが訊ねる。
ダージリンが口を開こうとしたとき、森に銃声が響いた。
カモミールの表情が無表情のまま、引き締まる。
アールグレイは拳銃を持っていない。この森に、三人と刺客以外に人間がいるなら別だが、銃声の原因は刺客の可能性が高い。
「音がした場所は特定できました。探しに行きます」
ダージリンは、カモミールを見た。
「僕だけで見てきます。カモミールは、引き続きこちらで待っていていただけますか」
カモミールは、唇を噛む。
知っている。
アールグレイやダージリンに比べれば、自分が戦闘能力において劣っていることは、はっきりと自覚している。簡潔に言うと、足手まといなのだ。それが分かっていたから、カモミールは顎を引いた。
「気をつけろよ」
ダージリンは軽く一礼すると、音が最後に聞こえた方角へと走り出した。カモミールからは、ダージリンがすぐに見えなくなった。
ダージリンは、下草の生えた森の中を、ものともせずに駆け抜ける。銃声が響いた位置は正確に把握していた。その後かすかに聞こえた重みのある物音も、聞き漏らすことはなかった。
ダージリンの目に、人影が映る。
木々の合間に、黒いシルエットが見えていた。
アールグレイと、刺客。
ダージリンは、冷静に状況を分析する。
アールグレイが、地面に座り込んでいた。アールグレイの下には、小さな血だまりがある。脇腹からの出血だ。片手で脇腹を押さえている。
アールグレイの視線の先には、アールグレイに銃を向けた刺客。
その光景を見ても、ダージリンの表情は変わらなかった。
ダージリンは、足音を立てないようにして、太さのある樹の背後に隠れた。敵には見つからなかった。だが、ダージリンにとっては、当然のことだ。
ダージリンは、樹の裏から状況を窺う。
アールグレイの正面にいる刺客は、サングラスを掛けた肩幅の広い人物。細身の身体に筋肉が効率よくついている。黒いダウンジャケットに、ジーンズを身につけていた。銃さえ持っていなければ、どこにでもいる人間に見えただろう。
アールグレイに拳銃を向けたまま、アールグレイに話しかけているようだった。
「どうした、もう少し動ける奴だと思ってたんだけどな」
声は若くもなく、年老いてもいない。やや嘲りが含まれている。
「ナイフを忘れてきてしまってね」
アールグレイが笑いながら平然と嘘をつく。
「車への襲撃が急だったから、準備が整わなかった」
刺客が歯を見せて笑う。
「言い訳だ」
「ラッセルの殺害に固執するのはなぜなんだ」
刺客は口橋を上げる。
「やっぱり、護衛関係者か。早く潰しにきておいて正解だった。……お前ら、現執者だろ」
やはりか、とアールグレイも思う。
ラッセル宅から出てきた途端に狙撃してきたというタイミングも考慮すると、こいつがラッセルを暗殺しようとしていた人間に違いはなさそうだ。
「何だ、現執者って」
アールグレイは眉をひそめる。演技だ。現執者という言葉を知っている時点で、現執者であるという疑いから逃れることは難しくなる。現執者でもないのに、現執者を知ることは普通、あり得ないからだ。知らないふりをしていれば、助かる見込みも高まる。
「三人組の現執者の旅人は有名だからな」
アールグレイは溜息をつきたくなる。
その情報はまったく真実とはほど遠いのだが、アールグレイが何を言っても、現執者だと思われ続けることが確定した。時に誤情報は、真実よりも意味を持つ。
「俺は、覚えたものを目の前に現出させられるんだ。だが、一度しか接したことのないものなんかは駄目だ。俺の部屋の中にあるものはかなり出しやすい。例えば」
「長い」
アールグレイに話を遮られて、刺客はむっとしたように黙る。
「悪いね」
アールグレイは、まったく悪びれずに謝る。
「ところで、君はその自慢の現式を使わないのか。私は今動けない。君は現式を使えば確実に勝てるじゃないか。私を重い物で押し潰すのもいいし、泥なんかを持ってきて、窒息死させるのもアリだね。あるいは、熱々のフライパンを落としてもいいわけだ。はは、想像が膨らむね」
アールグレイの挑発に刺客は思いのほか乗らず、笑みを収める。
「そう、俺も現式に思い当たった。でも、現式を使おうとしても、使えなかったんだ。……まあ、さっきかなり現式を連発したから、力を蓄積する時間が必要なんだろう」
現式に充電時間も何もない。刺客は現式について、きちんと理解していないのだろう。アールグレイは思うが、口には出さない。
黙り込んだアールグレイに、刺客は調子を取り戻して、口元を歪める。
「見たところ、お前は強い。俺たちの仲間にならないか」
「仲間?」
アールグレイは笑う。
「あいにくだけど、私は仲間なんていう言葉が嫌いでね。断る」
「お前なら、そう言うと思ってたさ」
刺客は頷く。
「だが、憐れだな。こんな場所で仲間にも見つけてもらえずに死ぬなんて」
刺客の声を聞いたアールグレイが、一瞬呆けた顔をしてみせた後、肩を震わせて笑う。
「なんだ」
刺客が警戒する。
「いや、何を勘違いしているのかと思って」
「何がだ」
アールグレイは笑いを収める。
「私には仲間なんていないよ」
「いるだろう、あと二人。車で一緒に旅をしている」
「そこまで知られているのか」
「知っているのは今のところ俺だけだ」
「ラッセルのことは、他に誰が知っている?」
「それも、俺くらいしか知らないだろうな」
アールグレイは目を眇めた。
やはり、こいつはラッセルとメイビーンを狙っていた人間だ。そして、私たちのことはたいして知らないらしい。キャンピングカーで旅をする三人組程度にしか。
今はその通りだ。三人の名前もない旅人。だが、誰にでも過去はある。
アールグレイは、辺りに注意を払う。目の前にいる現執者の同職者がいないか気配を探ったのだ。しかし、気配は感じられなかった。
「単独行動か……」
「そうさ。お前をやったら、あと二人の仲間を探しに行く。一番強そうなお前でもこの程度なら、あとの仲間二人も大したことはなさそうだ」
「仲間ねぇ……」
アールグレイは脇腹を押さえて苦しげにしながらも、笑みを浮かべて息をはく。
「一緒にいたら仲間なのか。少なくとも、私はそうは思わない」
刺客が目を細めた。
「そう言えば、俺が残りの二人を見逃すとでも?」
アールグレイは、刺客から視線を逸らした。
「いつまでお喋りしているつもりだ。暇人か」
「お前から情報を引き出そうと考えていたんだが、思っていたより人間嫌いだったようだな。仲間にもならず、有用な情報ももたらさないのなら」
刺客は、アールグレイに向けた銃を構え直す。
「殺すのみだ」
アールグレイは笑う。
「私を甘く見すぎじゃないか。そんなに遠くから撃っても、私には当たらないよ。もっと近づいてみろ」
刺客は、顔を歪ませる。挑発だと分かっているが、確実にアールグレイを仕留めるには、確かに銃口をアールグレイの額にでもつけていた方がいいに決まっている。
自分を追いかけてくるアールグレイの姿を見て思ったのだ。こいつは強い、と。もし、狙いを外せば、こちらに危険が及ぶかもしれない。
アールグレイの方へとゆっくり歩み寄っていく。
アールグレイは、刺客が向ける銃口を、真剣な目で見つめ返している。
どうしてこいつは、こんなに落ち着いていられる。
こいつは、本当に銃弾から逃げ切るつもりなのか。そんなことができるのか。できるのなら、そいつは人間の反射速度を超えている。人間ではないのではないか……。
かさり、と草を踏む音がした。
刺客は、顔色を変え、そちらに目を向ける。銃口は、流れるように、姿を木々に隠しきれなかったカモミールに照準を合わせる。ダージリンをひそかに追ってきたカモミールが、自分に向けられた銃口に目を見開く。事態の深刻さに身動きが取れず、
銃声が響いた。




