10.正常と異常
カモミールの顔が驚愕に染まる。
ダージリンが持っていた自動式拳銃が、煙を空にたなびかせた。
刺客は、一拍遅れて、冷えた土の上に倒れた。そのこめかみには、穴が開いていた。一定の間隔で、血がこめかみから噴き出している。色のない世界の中を、深紅が染めていく。
「お怪我はありませんか」
ダージリンは、青ざめた顔をしているカモミールに駆け寄る。銃声は、ダージリンが引いた引き金の分で一発だけだ。カモミールは無傷だった。
「俺は大丈夫だけど……」
カモミールは、動かない刺客を凝視する。
「あいつは」
「亡くなりました」
カモミールが、ダージリンに青白い顔を向ける。
「どうして……」
「カモミールに銃口を向けたからです。それに、いつかは殺される運命だったのです。僕たちは、メイビーン様から依頼を受けて、刺客を捕らえる任務を受けていました」
刺客をメイビーンに引き渡した後、メイビーンがどうするかなど、分かりきっている。だからこそ、カモミールは止めようとしたのだ。この依頼は受けるべきではないと。
時期が速まっただけ。ただ、すべてはすでに整えられた筋書きを、その通りになぞっただけ、なのだろうか。
「カモミールが気に病む必要はありません」
カモミールは俯いて拳を握りしめる。
「確かに、そうだ……けど」
言いかけたカモミールが、ダージリンの肩越しに地面を見る。
「そ、そうだ、アールグレイ!」
カモミールは、我に返ったように、倒れたままのアールグレイに駆け寄る。
「アールグレイ、大丈夫か」
カモミールは、アールグレイを助け起こす。アールグレイは、少し笑いながら、立ち上がろうとした。脇腹を押さえて、痛みに呻く。
それを見たカモミールが焦りを見せる。
「撃たれたのか?」
「大したことはない。銃弾が掠っただけだ」
カモミールは、震える手で、アールグレイの傷口に触れる。どう見ても、掠っただけではなかった。ダージリンが肩を撃たれた傷に比べれば、十分深い。
アールグレイが顔をしかめた。
「触るな」
カモミールは、手を引く。自分の指についた鮮やかな赤を、瞳孔の開いた目で呆然と見つめる。その顔が、ゆっくりとダージリンに向けられた。
「近くで見ていたのなら、なんで助けなかった?」
カモミールの責めにも、ダージリンは表情を崩さなかった。
「作戦の通りに動きました」
「作戦……」
カモミールの眉がひそめられる。
「刺客の位置が分かった場合、アールグレイが囮となり、接近してきた敵をナイフで仕留めると。その際、僕は手出しをしない。アールグレイの安全よりも、カモミールを保護すること。そう、伺っています」
「でも、アールグレイは撃たれているんだぞ。助けるのは当然だろ」
ダージリンの表情は少しも変わらない。
「ご指示がなければ、そう動くところでした。しかし、アールグレイからは、手出しをするなと言われていました」
「指示がどうした。アールグレイはお前の上司でもなんでもない。俺なんかより、アールグレイを助けに行くべきだっただろ」
「アールグレイのご指示では、カモミールを優先するようにとのことでした。カモミールからは、何も伺っておりません。ご命令に従う、何もご指示がない場合、アールグレイとカモミールの保護をいたします」
「だからか」
カモミールは、ダージリンを睨み付ける。
「だから、俺が狙われたときは、すぐに銃を抜いたのか」
「はい」
ダージリンは、丁寧に礼をする。
ダージリンにとって、二人を守ることは当然のことだった。ただし、二人の意志に背くことはしない。
カモミールは絶句する。
「そんなの、おかしい」
「いや、これでいいんだ」
「どこが」
アールグレイは笑う。
動かなくなった、冷えていくばかりの刺客に視線を投げる。
「生死は、それほど重いものなのか。深刻になる必要がどこにある。……もう、いいじゃないか」
「よくないっ」
カモミールは、声を荒らげる。アールグレイの脇腹からは、緩やかに血が流れている。ダージリンは、その様子を見て、丁寧に止血を始める。
アールグレイは、ダージリンの手を軽く払う。
「いいよ、時間が経てば治る」
「いけません」
ダージリンは手を止めない。
カモミールは、アールグレイから離れて、唇を噛み、ダージリンを見据えた。
「それじゃ、ダージリンは機械か何かなのか? 何がいいんだ? 自分ではない他人のために生きてるのがか?」
「……」
「ダージリンはどうしたかったんだ? 目の前でアールグレイが撃ち殺されていてもよかったっていうのか?」
「……」
「自分の意志というものはないのか? 誰にでもあるはずだ。ダージリンにも、あるはずなんだ。それをどうして表に出さない? どうして言葉にしない? ダージリンにとっては、何が大事なんだよ?」
ダージリンは、一瞬手を止め、静かにカモミールを見つめ返した。
「僕には決めかねます」
「お前は異常だ」
カモミールはダージリンを指さした。その指を、アールグレイにも向ける。
「お前も」
「まるで、自分だけが正常だと言っているみたいだ」
アールグレイの笑いに、カモミールが反発する。
「俺はまともだ」
「そんな基準はない。正常と異常の境界なんかない。狂気と理性の境界が簡単に乗り越えられるのと同じで」
「俺はどんな状況になっても、お前らみたいにならない。お前らみたいに自分を見失わない」
カモミールが瞳の中に意志を込める。
「絶対に」
そのまま、背を向けて一人、先に車に戻っていく。
青いな。
アールグレイはかすかに笑う。
灰色の空を見上げた。
「少し痛むかもしれません」
ダージリンがアールグレイの肩を支えて、立ち上がる。アールグレイは、痛みに顔をしかめた。先にカモミールが去っていった方へと、ダージリンはアールグレイを連れて歩き出す。
結局は、同じ場所に帰っていく。
アールグレイは、微笑んだ。
命の消えた者が一人残された森は、相変わらず静かだった。




