7.目的
夜のビル街。辺りは夜の静けさと車の走行音、夜遊びに出かける人間たちの喧噪が、不思議な一体感を醸し出している。夜であっても、街は寝静まる気配がない。
しかし、ビルとビルの間にある路地に足を一歩でも踏み入れると、雰囲気がまったく異なる。世界は、一瞬で音をなくしたように、辺りは冷たさを帯びる。電飾が届かない路地は、一段と暗さを帯び、人間ではないものが潜んでいてもおかしくはないと感じさせる。
そんな硬質な路地を歩く一人の人影があった。
顎の辺りでまばらに切られた髪に、華奢な体躯。足早に路地を進むたび、ワンピースの裾が、膝下で柔らかく揺れる。レースがあしらわれたおろしたての白いワンピースは、その人物に、よく似合っていた。その人物は、顔を上げ、冷たく澄んだ空に輝く月を見上げた。ややつり上がった目が、月光を反射する。
「この近くのはずなんだけど……」
やや低い声で小さく呟く。
さらに足を速めようとしたところで、その人物は、進行方向に佇んでいる人影を見つけた。足を止める。
佇んでいた大柄な人間は、気配に顔を上げた。煙草を口から離し、視線の先に目を凝らす。
獰猛そうな表情に、残忍な目が光った。目の前に立つ白いワンピースの人物に気づいたのだ。口元に浮かぶ笑み。
世間知らずなのだろう。
こんな真夜中に人気のない場所を歩き回っている少女。
薄汚れた作業服を身につけた大男は、ワンピースの人物に一歩近づいた。彼は、ワンピースの人物が腰を抜かして動けなくなることを予想していた。
しかし、ワンピースの人物は、僅かも怯えることなく、大男の方へと歩んでいく。軽やかな足取りが、状況に似つかわしくなかった。
本当に世間知らずだ。
大男の口元に浮かぶ笑みがいっそう深くなる。
今日は仕事が上手くいかなくて、今の今まで苛立ちが抑えきれなかったが、これほどの収穫があったのなら、そう悪い日でもなかったかもしれない……。
少女の顔が、月明かりに照らされる。少しつり目で、涼しげな目元をしている。少女は目を閉じた。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。どこにでもいる少女のようではなさそうだ。どこかしら、まとう雰囲気が違う。
悲鳴を上げられたところで、別にどうということはない。路地は無法地帯だ。誰も助けになんか来ない。悪く思わないでくれよ。何も知らないお前が悪いんだから……。
ワンピースの人物は唐突に目を開く。
人形のように表情のなかったワンピースの人物が、急に口元を緩めた。
「愚者は、お前の方でしょ」
ワンピースの人物が、ブーツの側面に沿って底に突き刺していた針を両手に一本ずつ引き抜く。そのまま、両腕を交差させて大男に針を飛ばす。全長十五センチほどの細い針は、大男の両目に一本ずつ突き刺さった。
「があっ‼」
大男が、耳障りな大声を上げて仰け反った。
何だ、何が起こった?
状況がまったく理解できず、大男は反射的に顔を押さえる。そのために、目に突き刺さった針が、さらに奥に押し込まれてしまう。
「ぎゃああっ‼」
「あーあ……」
ワンピースの人物が、片手で三本ほどの針をもてあそびながら、呆れたように声を漏らす。
「自分で余計に痛くするなんて、馬鹿じゃないの。目に針が刺さったら、そのままにしておくのが一番だよ。抜いたら血が体外に噴出するし、押し込んだら網膜が傷つくし」
ワンピースの人物が、くすっと笑う。
「ま、どちらにしろ、死ぬ運命からは逃れられないんだけどね」
「相棒、目に針が突き刺さることなんか、普通に生活してたらないと思うぜェ」
ワンピースの人物が、声のした方を振り返る。実は、声がする前からどこにいるかが分かっていた。彼は存在自体が騒がしいのだ。
「一般論? 僕たちの世界ではよくあることでしょ」
耳の上辺りで暗めの赤い髪を斜めに切りそろえた長身で痩せぎすの男が、闇から浮き上がるようにして現れた。首元が大きく開いた長袖に、黒いダメージスキニーを穿いている。斜視の目が大きく、口が裂けたように大きい。耳につけた金色の長いピアスが、僅かな光に反射する。
彼は、ワンピースの人物が手に持つ針を、骨張った指で指し示す。
「相棒の武器は珍しい。針を飛ばしてくる奴を見ないで生涯を終える人間なんてざらにいるだろうよォ」
「だからさ、相棒って言わないでくれる、キホーテ」
ワンピースの人物が、針をキホーテに向ける。
「おォ、怖えェ~」
「僕、キホーテの相棒じゃないって何回も言わなかったっけ。僕の名前はディアボリック。キホーテの相棒では決してない」
「はいはいィ。まァ、ディアボリックが無事でよかったぜェ。相手の現式の方が強かったら俺が助けに行かないといけないところだったなァ」
「いらないよ。こいつは僕だけで十分だった」
キホーテは、口角を吊り上げた。
「だろうなァ。こいつは何点だったァ?」
ディアボリックは、キホーテに嫌悪の表情を向ける。
「何でそんなこと言わないといけないの」
「お前の現式では、他者の強さが点数で分かるんだろォ。現執者か、そうでないかにかかわらずなァ。だからお前は仕事が速い。強さを見極める時間を必要としないからなァ」
ディアボリックは溜息をついた。
「あのさ、僕の現式を街中でべらべら喋らないでくれる。誰が聞いてるか分からないんだから。現執者に聞かれてたら、どう責任取ってくれるの。キホーテが責任取ってくれるなんて想像もつかないんだけど」
「相変わらずの毒舌だなァ。胸が痛むぜェ」
「キホーテはそんなに繊細な人間じゃないでしょ。それより、分かった? 現式の話は外でしないでよ」
「分かってるよォ」
キホーテが適当に返事をし、大男を見やって両手を頭の後ろで組んだ。
「もうじき動かなくなるなァ。始末完了。今日の仕事も楽だったなァ」
ディアボリックはこめかみに青筋を立てる。
「キホーテは、僕の見物してただけだったから、そりゃ楽でしょ。働いてないじゃん」
「お前の教育のためだよ、どれもこれも。いやァ、にしても、人間が苦しんでる姿を見るのは、爽快だなァ。俺にとっては天職だぜェ」
「悪ぶるのは好きにしてもらって構わないんだけど」
ディアボリックは、着ていたワンピースを引き裂いた。内部に着用していたボディスーツが露わになる。月明かりに、ボディスーツの光沢が反射する。
「ああァ~」
キホーテが口角を下げる。
「なんで破り捨てるんだよォ。もったいない。似合ってたぜェ」
「だろうね」
ディアボリックは、照れるでもなく、さも当然のように受け流す。
「これが僕の戦い方なんだから。似合わないなら、わざわざ女装なんかしないよ。こんな動きにくい服じゃ、敵を仕留められないかもしれないから」
動かなくなった大男の方を見る。
うつ伏せで倒れた男の後ろ首辺りから、針の先端が二本突き出している。針が突き刺さってすぐに助けを呼べば、まだ助かったかもしれないが、この場に助けを呼ぶ人間はいない。
ディアボリックは、思い切り顔をしかめた。
「あいつ、僕のこと可憐な少女だと思ってるんだもん。笑っちゃうよね、馬鹿すぎて」
「お前はワンピース着て黙ってたら、どこからどう見ても少女に見えるからなァ」
ディアボリックは、破ったワンピースを路上に捨てて踏みつける。清潔さのあった白いワンピースは、見る影もなくなる。
「これが僕の戦い方だからね。騙される方が悪いんだよ」
「ヒヒヒ、とりあえず、危険人物は処理した。一旦本部に帰るかねェ。俺としては、もう少し人死にが見たいがなァ」
「いいね」
キホーテは、ディアボリックの方を素早く振り返った。ディアボリックは、平然とした顔でキホーテを見返している。
当然本部に帰ろうと言われるかとキホーテは思っていたため、肯定されたことが意外だった。
キホーテは、目を細める。
「ヒヒヒ、まだこの国にいるってことかねェ。そりゃあいい。たまには羽を伸ばそうぜェ。俺が先輩として遊びに連れてってやるよォ」
「いや、キホーテと僕の趣味は合わないから遠慮しとく」
「じゃ、お前の遊びに付き合ってやるよォ」
「僕のは遊びじゃないんだよ」
ディアボリックは、暗い夜道の先を見つめた。
「先輩を探してみようと思っててね」
「それは、無謀だ。やめておけェ」
キホーテが、笑みを消し、冷えた声で諭す。
「どうして」
ディアボリックが、苛立ったように、キホーテを振り返った。
「僕は正直、今日みたいな面倒な任務を引き受けたくはなかった。さっき殺した奴は弱すぎる。組織にとって危険人物ではあったけど、それは認識に関連した問題でしょ。今回の奴の戦闘力は皆無に等しい。現式の使い方もさっぱり分かってないみたいだったし。こんな奴とばっかり戦ってたら、先輩にいつまで経っても追いつけないよ。
分かる?
上達が見込めるということは、堕落もあり得るということだ。上を見ていないと、堕落はすぐに人間を蝕むものだよ。僕はもっと強い奴と戦いたい。下っ端はどうでもいい仕事しか押しつけられない。それなら、僕自身で先輩を探し出すしかないよ」
「こいつが改変する認識は、徐々に利いてくるタイプだったんだァ。現式としての完成度も効力も低いが、性格が直情的だから、何をしでかすか分からねェ。早いとこ殺しておくことで、将来のためになったはずだぜェ」
キホーテは、不服そうなディアボリックを見る。
「お前は人の役に立つ仕事をしたんだよォ」
ディアボリックは鼻を鳴らして、そっぽを向く。
「認識とか、人のためとか、僕自身は、どうでもいいんだよね。僕は、先輩に会うことが本命だから。他のことは些末な問題だよ」
「でも、そいつは死んだんだぜェ」
キホーテの声が、暗い路地に静かに響いた。
「そう聞いた。……でも、僕には信じられない。先輩は強い。あり得ないくらいに。だから、そんなに簡単に死ぬなんて、あり得ない」
「信じたくないのは分かるがなァ」
「僕はこの目で先輩の死体を見るまで、先輩が死んだとは信じない」
「もう無理だろォ。そいつが死んだのはもう数年前だァ。とっくに塵になってるよォ」
ディアボリックが、キホーテを睨み付ける。
「どうして知らないの、キホーテ。僕より長く組織にいたんでしょ。それなのに、何も知らない。本当は何か知ってるんじゃないの。少なくとも、僕よりは組織の内情に詳しいはずだ。何で隠そうとするんだ」
「別に隠してなんかいないぜェ」
ディアボリックは、キホーテを見上げる。その目の中には、少しだけ懇願を伴った焦りが含まれていた。
「一生のお願いだから、早く僕のもとに先輩を連れてきてよ。名目上は、キホーテが僕の上司なんでしょ」
「無茶言うなよォ。死んだ人間をどう連れてくるっていうんだよォ」
キホーテは、諦めたように息をついた。
「現実を見るんだなァ」
「でも、どこかで生きていることは確かなんだ。あの先輩が、簡単に死ぬわけがない」
「たとえそうだとしても、探し出してどうするんだよォ」
ディアボリックが、針を持ったままだった拳を強く握りしめ、口元に笑みを浮かべた。
「もちろん、殺す」
「やめておけェ。存在の不確かなものに人生を懸けるなんてなァ」
キホーテは、闇の奥へ向き直る。ディアボリックを残して、歩き出す。
キホーテの脳裏に過る、冷徹なかつての同僚の姿。その傍らにいた自分の姿。
今まで、横を歩いてきた。これからも、ずっとその隣で過ごすのだと考えていた。
それがいつの間にか、隣にいたはずの人物は消えている。
強くて残酷だった。でも、それ以上に孤独だった。時折見せる、倦んだような虚無を見ると、自分の絶望に名前がついたような気がしたものだ。
キホーテの瞳がほんの僅かに悲しみを帯びる。
「無意味だァ」
今の顔を、ディアボリックには見られたくなかった。




