2.追っ手
家を出ると、右手前方に森が広がっている。ぽつぽつと住宅が点在している田舎の土地に、まばらな針葉樹林が生えているのだ。
この光景は、何度見ても見慣れることはない。どこがとは言えないが、どこかが不自然だと感じる。
周りに住んでいる人々は、この森のことをどう思っているのだろう。いつも不思議に思うが、訊いた試しはない。
車庫から車を出して、門を出る。自動的に門が閉まっていくのをバックミラー越しに見ながら、加速する。この屋敷は無駄に金がかかっているのだ。
森が徐々に遠ざかっていく。それを見ると、少しだけ安心する。あの森は、あってはいけないもののような気がするのだ。
どこで暇を潰そうかと考える。今日外出したのは、何か用事があったからではない。家にいる者が、自分に席を外してほしそうにしているのを、肌で感じ取ったのだ。
昔から、人の顔色を読むのは得意だった。今回も、微妙な視線の動きや仕草から、自分が邪魔であることを確信した。
「今日は行くところがある」
ジャケットを羽織りながら言うと、同居人はコーヒーカップの載ったプレートを手にしたまま立ち止まった。
「どちらですか」
それらしい用事を言ってみる。たった今考え出した用事だ。
彼女は眉をひそめる。
「でも、大丈夫ですか」
「問題ない」
彼女は心配しながらも、送り出してくれた。私を信用してくれているのだ。
栗色の髪は、腰上まである。大きな瞳に、すぐに変わる表情。足首まである長いワンピースに、ネクタイを締めた彼女の姿を思い浮かべる。
従順な人だ。
しかし、完全に信用するのは危険だ。
それは、誰であっても同じこと。
町に入った。大通りの両脇に店や家、アパートなどが立ち並ぶ小さな町だ。
赤信号で一時停車する。横断歩道を歩く人々をなんとなく眺めてみる。一人だけ、周囲をきょろきょろと見回している人がいた。不自然な動作が目を引いたので、無意識に視線がその人に固定されてしまっていたらしい。
彼が、こちらを向いた。サングラスを掛けていたのに、視線がぶつかったことがはっきりと知れた。
見つけた、と彼は口の動きだけで表現した。
私は表情を変えないように意識する。
歩行者信号が、点滅する。続いて、車道の信号が青に変わる。
歩道から、視線を感じる。視線は、正面を向いた私の横顔に突き刺さる。
彼は、反対車線の奥にある歩道から、私の方を見ていた。彼の姿が後方に流れていったのを確認して、 私も口の中で呟く。
「見つけた」
数日前から私を狙い続けている人物。
殺意の種類が同じだ。同一人物と見て、まず間違いない。住所と車種はすでにばれているだろうが、一旦この場は危害を加えられずに逃げ切りたい。相手は徒歩。こちらは車。こちらの方が若干有利ではある。
私は目を眇めた。
しかし、向こうの現式にもよるか。
私は、刺客の視線から離れるように、車道を走る。この辺りの道ならば、私はよく通るため、迷子にはならないだろう。
しかし、認識系統を狂わせてくる現式なら、厄介だ。現式から抜け出せない場合はどうするか。いや、それほど強い現執者ではないはずだ。今までの攻撃は、すべて物理攻撃。殺意の種類は変わらないから、同一人物だとすると、今回も物理攻撃だろう。
ということは、あまりスピードを出すと事故を起こしてしまう。刺客も、私に手を加えずに私が死んでくれることを望んでいるだろう。
完全犯罪の犠牲者になるのはごめんだ。
それに……。
家に残してきた彼女の表情が、瞼の裏に思い浮かぶ。
私がもし事故でも起こしたら、彼女の怒りは収まらないだろう。
私に対して怒るのではない。
私を追い詰めた人間を彼女は許さないのだ。私が死にでもしたら、彼女は残りの人生のすべてを復讐に費やすかもしれない。それは避けなければならない。
私は深呼吸をして、前を睨み付ける。
突如、前にコンクリートブロックが急に現れて立ち塞がる。
物理攻撃の現式だ。
私は、思い切りハンドルを右に切る。背後で、クラクションが聞こえた。
申し訳ないと思う暇もない。
対向車線を若干越えてしまった車体を元の車線に戻す。これでは、私自身が事故の原因にされかねない。コンクリートブロックを現式で出現されましたと訴えても、認めてもらえるはずがない。私のハンドル操作ミスにされるだけだ。今までなかったものが急に現れるなんて、考えられないことなのだから。
車は降りた方がいいだろう。どこか駐車場を探すか。
気がつくと、前方で、烏の死骸が二、三積み上がっている。私は、その手前で交差点を左に曲がる。
あんなに折り重なって死なないだろう。つまり、現式の作用だ。
駐車場を探している場合ではない。私は、後ろに車がついていないことを確認して、路肩に車を寄せて急停車した。ドアを乱暴に開けて、鍵も掛けずに飛び出す。
背後から聞こえてくるクラクションはすべて無視。
歩道を当てもなく駆け抜ける。
まだ気は抜けない。
車の運転を誤る心配がなくなっただけで、建物から何かが落ちてくることはあり得る。全方向に注意を向ける。
どこから見られているのか分からないが、必ずどこかからか見られている。そう、確信してしまうほど正確な障害の配置だ。相手の現式のすべてを把握はできていない。何が起きるかが分からない。
建物内に入るか。
いや、閉鎖空間は危険かもしれない。いざというときに逃げられない可能性もある。
しかし、このまま歩道を走り続けるわけにもいかないか。
建物の窓から、鋭く尖った石が数個落ちてくる。
もちろん、現執者が意図的に降らせたものだ。尖った石なんか、この辺りでそうやすやすと手には入らない。小さいとはいっても、町中なのだ。そもそも、窓から人通りがあると分かっている歩道に向かって石を落とす人間はおそらくいない。
だんだんと刺客の現式の正体が分かってきた。相手は物体を出現させられるのだろう。その物体が、現実に存在するものを他の空間から持ってきたのか、それとも自分の想像を具現化したものなのかは分からないが。大きさにかかわらず、物体を出せるわけだ。この仮説が正しいという確証はないが、今のところ、これが最も理にかなった仮説だと思う。
私は走りながら、ちらりと背後を振り返る。降り注いだ石は、消えずに歩道に転がっている。
なるほど。
おそらくは、出現させた物体を消失させることはできない。出現のみの現式。
それでは、私と真逆だ。
街路樹から、閉じられた傘が降ってくる。傘の先端は、私の頭を正確に狙っていた。もちろん、これも現式による出現。私はこの傘を現式によって避けることができる。わざわざ、歩道を逃げ回る必要はない。
しかし。
私は素早く辺りを確認した。周囲には、歩道を歩く人々。手をつないだ親子連れ、自転車に乗った学生、買物帰りの女性、エプロン姿の店員。
彼らを巻き込むわけにはいかない。
私は、身体を捻って、傘の先端をかわす。傘は、煉瓦風に整えられた歩道に音を立てて落ちた後に、横倒れになる。
「あら、危なかった……。大丈夫?」
親切そうな中年女性が声を掛けてくる。正直、答えている場合でもない。
「はい」
私は短く答えて、すぐに走り出す。相手の女性にしたら、何が何だか分からないだろう。
私は現式を使える。
しかし、こんな衆人環視下では使えない。能力としては使えるが、状況を考えると躊躇うのだ。
相手の物体出現の現式は、見間違いで済むかもしれない。窓から石を落とした人がいたんだね、傘が街路樹に引っかかっていたんだね……。都合のいいように解釈する余地はある。
しかし、私の現式はそんなわけにはいかない。
相手は、私が現式を町中で使うことを躊躇すると踏んで、ここで攻撃を仕掛けてきたのか。
とすると、早く人々の目から離れるべきだ。誰も見ていないのならば、私は現式を解放できる。
私は、町の外れを目指して走り出す。誰も押していない手押し車が緩やかな傾斜を利用して、私の進行を邪魔する。横へとかわした直後に、私の顔を枯れ葉が覆い隠す。手で払って、前を見ると、人にぶつかりそうになっている。謝って、私は前を急ぐ。背後からは刺客が追ってきているはずだ。現式では、直接的な攻撃ができない様子。現式によって私を足止めするか、私のミスで交通事故にでも遭ってくれたら幸運だとでも思っているのだろう。
そう都合よく死んでやるものか。
町の外れが見える。そこからは、道路の両側が徐々に草原へと変化する。まばらに住宅が建っているが、場所を選べば、人目を完全に避けられる。
尖った石が飛んでくる。足下で、ビニール袋が渦を巻く。
刺客にも、私の意図がばれたようだ。私を町の外に出さないように、攻撃が必死さを帯びてきた。走りの速度が落ちる。腕に絡みつく誰かのコート。振り回した腕が誰かにぶつかって、怒鳴られる。
まだだ、まだ……。
突如、
左肩に痛みが走る。
咄嗟に押さえた右手が瞬く間に濡れる。
まずい、撃たれたか。
音はしなかった。周囲の状況に変化はない。サイレンサーでもつけて、隠れた場所から撃ったのかもしれない。
現式さえ使えれば、こんなことにはならなかったのに。
違う、
今は逃げることだけ考えろ。
周囲には人がいる。まだ、私が撃たれたことには気づいていない。好都合。騒ぎを引き起こしてはいけない。善良な市民は、私が撃たれたことに気づいたら、病院に連絡して助けてくれるだろう。
しかし、その必要はない。この町は治安がいい。昼間から拳銃が発砲されるような土地ではない。
私の存在が、この町の平穏さを脅かしてはいけない。
ああ、しかし……。
左手の先から、血が垂れる。
煉瓦風の地面に染みこんだ血は、幸いなことに目立たない。また、私の腕から血が滴る。
ポタリ……、ポタリ……。
どうしようか……。
気づくと、周囲に人影がなくなっている。町の外れについたのだ。
物体の出現には対処できる。
しかし、
拳銃は少しだけ、
苦手だ。




