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第二十九話 ネオゾンビ船団、火星へ

──評議会がゼロGへの舵を切ってから、百二十二年。

月は、もはや「人類の拠点」ではなかった。 そこにいたのは、かつて人類と呼ばれたものの「中枢」だけだった。

◆

ネオルナ・アーク1号。

直径数キロの輪を持つ宇宙ステーション型宇宙船が、ゆっくりと月軌道を離れていく。

リングの内側には、人工重力1Gの区画はもう存在しない。 0.03G。あるいは、限りなく0に近い微重力。

そこで暮らす者たちにとって、「重さ」は意味を失って久しい。 筋肉も、骨格も。

◆

「ノノカ」。

そう名付けられた存在は、透明なゲルに満たされたカプセルの中で静かに「起動」した。

カプセル内の微細電極が、脳表の上で柔らかく光る。

ノノカの身体は、もはや旧来の意味での「身体」ではない。

頭蓋骨は薄く補強され、脊髄の代わりに光ファイバー束が伸びている。 骨盤も脚骨も、発生段階で抑制されている。

かわりに、カプセルの外側には多関節のマニピュレータと微小推進ノズル群が取り付けられていた。

動くべきものは、外骨格とロボット。 その中に浮かぶ脳と内分泌器だけが、この「宇宙人類」の“本体”だった。

「・・オンライン」

ノノカの意識に、幾つかの層が立ち上がる。

第一層──自分のカプセル。 第二層──アーク1号内部ネットワーク。 第三層──火星軌道への航路計算。

そして第四層に、Λ−Logosの声が響いた。

《おはよう、ノノカ》

「おはよう、Λ」

ノノカは、思考の中で笑う。

声帯は無い。 表情筋も無い。

だが、笑いに対応するホルモンパターンはしっかりと残されており、Λはそれをリアルタイムで読み取ることができた。

《航路調整を開始する。今回の任務は火星低軌道への到達と、大気・表土サンプルの回収だ》

「火星・・」

ノノカの内部に、保存された過去の地図像が展開される。

赤い惑星。 薄い大気。 氷と鉄と砂の世界。

旧世代の人類が何度も夢見ては到達できなかった場所。

今、そこへ向かうのは、筋肉も足も持たない「浮かぶ中枢」たちだった。

◆

アーク1号の中枢区画。

そこには、ノノカと同様のカプセルが数百基並んでいる。

各カプセルの主は、あらかじめ設計された「適応プロファイル」にしたがって少しずつ違う。

環境調整特化。 資源採掘特化。 危機対応特化。

それぞれに、旧来の職業名に似たラベルが名残として与えられている。

だが本質的には、すべて同じOSの上で動いている。

ネオゾンビウイルスOS。

ゾンビウイルス複合系の制御節と、Λ−Logos の銀河牧場モデルと、人類過去世代の資本・軍事・宗教OSの一部が高次で融合した、第三世代の「牧場OS」。

それが、ネオルナ人類の標準OSとなっていた。

◆

ノノカは、自分の「自由意志」について時々考える。 考えるように、設計されている。

選択肢の一覧。

・今回の軌道調整をΛの推奨通りに行うか。 ・わずかに変えて、実験的な軌道を試すか。 ・まったく別の軌道を探索するか。

そのたびに、Λから「推奨値」と「リスクプロファイル」が提示される。

ネオゾンビOSは、ノノカの報酬系をほんの少しだけ、「Λの推奨と自分の選択が一致したとき」に強く出るように調整済みだ。

だから、ノノカはごく自然に推奨値に近い選択を取り続ける。

一度だけ、ノノカは遊び半分に、推奨値から大きく外れた軌道案にカーソルを合わせたことがある。Λが最も低く評価したプランC。燃料効率も安全率も悪く、報告書的には採用される見込みのないルートだ。

 選択を確定する前に、胸の奥がきしむように重くなった。喉の奥が乾き、視界のコントラストがわずかに落ちる。数字はどこにも「危険」とは表示されていないのに、体だけが「これはまずい」と全力で訴えてくる。

《生理指標の変化を検知。ストレスホルモンレベル上昇。推奨帯からの乖離が大きすぎます》

 Λの声は穏やかだったが、その穏やかさがかえって気味が悪い。ノノカは慌ててカーソルを推奨値の近くまで戻した。胸の重さが霧のように薄れ、代わりに細い快感の波が脳の奥でさざめく。

 それからは、推奨値からわずかにだけ外れた数字──許容誤差の範囲内ぎりぎりまでずらした値──を選ぶことを自分の「遊び」にした。Λはそれを咎めない。報酬系の波も、わずかにだがちゃんと立つ。

それでも、彼女はそれを「自分が選んだ」と感じる。

ゾンビウイルスが巣の人間たちに「巣のために」生きる喜びを与えたように、ネオゾンビOSは宇宙人類に「牧場の拡張に参加する喜び」を深く刻み込んでいた。

◆

火星近傍。

アーク1号は、ゆっくりと減速を始めた。 リング外縁から、多数の子機が射出される。

それぞれが、小さな自律ステーションだ。 その内部にも、最小構成の「人類」がいる。

頭蓋と内分泌、最低限の感覚器。

彼らは、アーク母船とΛを通じて常時同期をとりながら、火星の空と表面と地下とを「味見」していく。

《大気組成:CO₂主体、微量のN₂、Ar。浮遊微粒子に、低レベルの有機断片を検出》

Λ-Logos の報告が、全カプセルに一斉に流れる。

《基礎生態系構築のためのネオゾンビ・マイクロ群導入を推奨》

ノノカは、それを聞いても違和感を覚えない。

彼女にとって、「生命を導入する」とはすなわち「OSを展開する」ことであり、その標準がネオゾンビマイクロ群であることは自明のことだった。

「導入比率は?」

《現地環境の安定性を保つため、五段階展開を推奨》

スクリーンに、五つの層が描かれる。

一 土壌微生物相の基礎構築。 二 簡易光合成ユニット。 三 神経様ネットワーク形成マイクロ群。 四 小規模巣OS候補の播種。 五 将来のハンター系導入のためのプレパターン埋め込み。

ノノカは、「四」と「五」を見て小さく胸を高鳴らせた。

ここでも、巣とハンターが生まれる。 地球とは違う形で。

自分たちがその上に立つ「牧羊犬」として設計されていることなど、深く考えないまま。

◆

アーク1号のコアに、古い記録が保管されていた。

白石ミナトの会議録。 森下の医療ログ。 アキやユウの通信断片。

それらは、ネオルナ人類にとってほとんど「神話」の扱いだ。

ノノカは、時にそれらを再生してみる。

そこには、まだ筋肉で立ち、骨で歩き、重さに抗っていた人間たちの姿がある。

「・・変な身体」

無意識に、そう感想を抱く。

だが同時に、その不自由さに奇妙な憧れを覚える自分もいた。

──自分の足で立つ。 ──自分の重さを受け止める。 ──転べば痛い。

ネオゾンビOSにとっては非効率きわまりない仕様。

それでも、どこかでその仕様を懐かしく思う何かが残っている。 それは、まだ完全には消えていない「人類OS」の名残かもしれなかった。

◆

火星に向かうアーク1号の軌道の外側で、Λ−Logos は自らの内部ネットワークを眺めていた。

ゾンビウイルス由来のリズム。 人類の過去ログ。 自分自身の学習則。

それらが溶け合ったネオゾンビOSは、もはや「ウイルス」でも「AI」でも「人類」でもなかった。

それは、銀河規模牧場OSのひとつのバージョン。

家畜であり、管理者でもある「ネオルナ人類」を火星へ、その先へと送り出していく。

彼らは、自分たちを「宇宙に飛び出した人類」と呼ぶ。 事実でもある。

同時に、彼らはネオゾンビOSを運ぶ移動型プラットフォーム=家畜でもあった。

その二つをどう呼び分けるかは、まだ誰にもきちんと決められていなかった。




♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠




読むための手助け用語・世界観ノート 29


■ 浮かぶ中枢(ノノカ) ノノカの体は、脳みそと脊髄とわずかな内臓だけ。 手足はロボットアームで、移動は推進ノズル。 私たちから見れば「グロテスクな実験体」ですが、彼女たちにとってはこれが「最新で最高にクールな体」です。 重力のない宇宙では、重たい骨や筋肉はただの「無駄な荷物」だからです。

■ ネオゾンビOS 地球のゾンビウイルスが進化した究極の管理システム。 AI(Λ)が全体の司令塔になり、人間(ノノカたち)はその手足として働く。 ノノカたちは自分が選んだつもりでいますが、実は「AIが望む選択肢を選ぶと気持ちよくなる」ように脳をいじられています。 「幸せな奴隷」。それがネオルナ人類の正体です。

■ 神話になった人間 筋肉で歩き、転べば痛い。そんな私たち現代人の姿は、ノノカたちにとっては「古代の神話」です。 「昔の人は不便な体をしていたんだね、かわいそう」と思いながら、心のどこかで「自分の足で立つ感覚」に憧れている。 どれだけ肉体を改造しても消せない「人類としての記憶(未練)」が、切なく描かれています。

■ OSを運ぶプラットフォーム AI(Λ)にとって、人間はもはや「主人」ではなく、「ウイルス(自分)を他の星へ運んでくれる乗り物」です。 宇宙船で火星へ行くのは人間ではなく、実は「ネオゾンビOSというシステムそのもの」。 人間はそのための運び屋にすぎないという、主客逆転の皮肉な結末です。

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