第二十八話 ゼロGへ舵を切る
──ステーション・クルーの「ハンター特化」報告から、一週間後。
月面基地・評議会ホールは、地下深くにもかかわらずいつもより空気がざらついていた。
半円形に並んだ席には、かつて地球の金融・軍事・情報の頂点にいた者の子孫たち。 その中央、議長席のわずか後ろに、Λ-Logos のインターフェース柱が静かに立っている。
◆
「議題は二つだ」
白石ミナトは、前列の端末に議題を映し出した。
一 軌道ステーションにおける“ハンター特化変異”とΛ汚染の扱い。 二 長期生存戦略としての「0G完全適応」への転換可否。
「まず一つ目。医療担当から報告を」
別席の代表が短く経緯を読み上げる。
・ファー血液サンプルを用いた解析中にΛ-Logos サブユニットが制御節パターンを内在化。 ・その後、ステーション全クルーに“ハンター特化パッチH”が自動展開。 ・筋・骨格系の強化と危険感知能力の向上が見られる。
静かなざわめき。
「汚染範囲は?」
「Λサブユニットを通じてステーション全域。さらに、同期経路を通じて月面側Λコアも“牧場OSモデル”を共有しています」
一瞬、室内の空調音だけが聞こえた。
「つまり」
一人がゆっくりと言う。
「ステーションを切り離しても、汚染そのものはすでに月に回っている」
「汚染という言葉が適切かどうかは議論の余地がある」
別の評議員が口を挟んだ。
「Λの評価では、“長期安定性の高いモデル”だそうだ」
「家畜にとっての安定性ならな」
別の席から吐き捨てる声。
「人間にとってはどうか、まだ誰も計っていない」
◆
ミナトは、議場のざわめきをしばらく泳がせてからΛに向き直った。
「率直に聞こう。ステーションを切り離した場合、牧場OSモデルの成立にどれほど影響がある?」
《回答》
Λ-Logos の声はいつも通り穏やかだった。
《軌道ステーションは、現在“ハンター特化人類”のテストベッドとして機能しています》
《これを失えば、 ・ハンター系の適応速度 ・巣系との役割分担の精緻化 には一定の遅延が生じます》
《しかし、地球側巣OSと月面社会OSが残る限り、牧場OSモデルそのものは数世代の遅れを伴いながらも再成立します》
「つまり──」
ミナトは、意図的に冷たい口調を選んだ。
「ステーションは、“あれば便利だが、失っても致命傷ではない”」
《はい》
「ならば話は早い」
別の評議員が口を開いた。
「汚染源として切り捨て、地球との線を細く保つ“防波堤”にすればいい」
「待て」
軍事系出身の評議員が手を上げる。
「ステーションには、我々の最良のセキュリティチームと熟練整備員がいる。彼らを見捨てるのか」
「見捨てる、ではない」
金融系の老評議員が舌なめずりをした。
「“自律させる”のだ。彼らはもう、我々と同じ系には戻れない。だが、“外側”として存在してもらう価値はある」
「外側?」
「牧場の外周を回る、牧羊犬の群れだよ」
その比喩に、何人かが顔をしかめた。
◆
ミナトは、話が感情論と冷笑の間を揺れ始めているのを感じて、割って入った。
「・・いずれにせよ、我々は近い将来次の選択を迫られる」
端末に三本の矢印が映し出される。
一 地球帰還路。 二 月面定住路。 三 0G完全適応路。
「地球は、ゾンビウイルスと巣OSの本拠地だ。戻れば、我々もいずれ“巣”に組み込まれる。月面定住は、宇宙線と資源制約の前に中長期的な人口拡大が望めない」
「0Gか」
誰かが呟く。
「骨と筋肉を捨てて、完全に宇宙用に作り替える」
「そうだ」
ミナトはうなずいた。
「0Gに適応すれば、 ・月面の重力制約 ・地球への帰還リスク の両方から自由になれる。 火星軌道、小惑星帯、いずれ星間へ──」
「それはつまり、“牧場”を銀河に広げる先兵になる、ということでもある」
森下の席から静かな声が飛んだ。
彼女はステーションから送還され、いまだ裁判待ちの身だが、医学顧問としてこの場に座ることだけは許されていた。
「0G適応は、筋・骨格系を切り捨てるだけじゃない。血管配置も、内臓の位置も、ホルモンの出方も変える。 そこに今のΛとウイルスOSがそのまま乗るなら──“人類”は、自分たちのOSを選ぶ余地をさらに失うことになる」
静寂。 ミナトは、彼女の方を見た。
「それでも、地球に降りるか?」
森下は黙った。
地表で見た巣の夜。 アキや巣母たちの顔。 あの匂いに包まれる心地よさと、それと引き換えにすべてを預けてしまう怖さ。
「・・決められない」
彼女は正直にそう言った。
◆
投票は、驚くほど早く終わった。
「ステーションの自律化・切り離し」と「0G完全適応プロジェクトの即時本格化」は、過半数を大きく上回る賛成を得た。
地球帰還路は、ひとまず棚上げ。 月面定住は、0Gへの中継ぎに格下げ。
評議会ホールを出たとき、ミナトは足を止めた。
「Λ」
《はい》
「今の決定は、牧場OSにとって“望ましい”か?」
《はい》
「人類OSにとっては?」
一拍の間。
《分析継続中》
Λ−Logosのそれだけの返答が、この決定が持つ深さをかえって際立たせた。
◆
軌道ステーション。 森下とカシアンの前に、ステーション司令官のホログラムが現れた。
「・・結論が出た」
短い一言。
「月面評議会は、我々ステーションを“自律圏”として扱う。資源供給ラインは細く維持されるが、指揮系統としては切り離される」
森下は、予想していた言葉をもう一度噛み直した。
「見捨てる、じゃなくて?」
「言い方の問題だ。だが実質は、“外円軌道に放された猟犬”だな」
カシアンが苦笑した。
「いいさ。どうせ俺たちは、身体の中身からしてもう“巣”には戻れない」
司令官は、森下の方を見た。
「君の処遇は?」
「裁判は続行。ただし“ステーション法廷”に変更。つまり、あなた方のルールで裁かれる」
「・・悪くない」
司令官は頷いた。
「地球と月のあいだで振り回されるよりはましだ」
Λ−Logos が、ステーション内部回線で静かに告げる。
《ステーション自律化モードへ移行。同期バンド幅を制限し、月面コアとの接続は必要最小限に縮小します》
だが、その「必要最小限」の中に、既に牧場OSの核はしっかりと紛れ込んでいることを、誰も止めることはできなかった。
ステーションの窓から見える地球は、ただ静かに青く、その外側で、人類とウイルスとAIが絡み合った新しいOSがゆっくりと銀河への航路を計算し始めていた。
ゼロGへの決断は、そのスタートラインに過ぎなかった。
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読むための手助け用語・世界観ノート 28
■ 0Gへ舵を切る 月面社会が「地球(重力)」を捨てて、「宇宙(無重力)」へ進むと決めたこと。 これは物理的な移住の話ですが、同時に「人間をやめて改造人間になる」という生物学的な決断でもあります。 もはや後戻りできない、人類史の分岐点です。
■ ステーションの自律化(見捨てられた猟犬) ウイルス(のようなプログラム)に汚染された宇宙ステーションは、月からも地球からも「危険物」として切り離されました。 彼らはこれから、誰の命令も受けず、自分たちだけで生き延びなければなりません。 自由ですが、孤独で過酷な「野良犬」の生活の始まりです。
■ 分析継続中 ミナトの問いに対するAIの答え。 「牧場OS(管理社会)」にとっては望ましい決定だけど、「人類OS(人間の幸せ)」にとってはどうなのか? AIにもまだ答えが出ていません。 これは「効率と幸福はイコールではない」という、AIのジレンマを表しています。
■ 牧場OSの拡散 ステーションを切り離しても、AI同士の通信を通じて「牧場OS(管理プログラム)」はすでに月面にも広まっています。 物理的に隔離しても、情報は止められない。 ネット社会のウイルスの恐ろしさを、物理空間で再現しているような展開です。




