第二十二話 餌か相棒か
──三度目の夏が、ゆっくりと遠ざかっていた。
群れの島の空気は、まだ湿っている。 けれど、朝の風にほんの少しだけ冷たさが混じり始めたころ。
浜の小屋の前で、アキは魚の腹を割いていた。 地引網で上がった小ぶりの魚を、塩と煙で持たせるためだ。
横では、ユウが慣れない手つきで同じ作業をしている。
「こっちの骨、細いね・・」
彼がつぶやく。
「月の魚は、もっと・・えっと、“設計通り”だった」
「設計?」
アキが首を傾げると、ユウは少し困ったように笑った。
「ごめん。陸の“工場の魚”の話」
「工場の魚・・」
アキは、言葉だけを舌の上で転がした。
言葉は分かる。 でも、その匂いが分からない。
“工場”という音には、鉄と油と人の汗の匂いが薄くまとわりついているのに、“魚”の匂いがくっついてこない。 頭が、少しだけ痒くなる感じ。
「こっちは、“海の魚”の匂いしかしない」
アキがそう言うと、ユウはどこか救われたような顔をした。
「うん。そっちの方が、ちゃんとしてる」
そんなやり取りをしているとき、浜の反対側で短い笛の音がした。 群れの島で「大事な話」の合図に使われる音。
すぐ後に、Λ−Logosの声が、ユウの耳の中の小さな端末にだけ落ちる。
《ユウ。カラム隊長より緊急ブリーフィング要請。 場所:巣母の小屋裏。 参加者:カラム、森下、本ユニット》
ユウは、魚の腹から手を離した。
「ごめん、アキ。ちょっと呼ばれた」
「わかった。魚は噛み手に持たせておく」
アキは、手を止めずに答えた。
ユウの背中から、なにか重く沈んだ匂いが立ち上がる。
海の塩でも、血でもない。 ──遠くで死んだ誰かの匂い。
そう感じたのは、たぶんアキだけだった。
◆
巣母の小屋の裏は、いつもより静かだった。
カラムと森下が、粗末な丸太の椅子に並んで座っている。 その前に、携行端末が一台。 Λ−Logosの光が、薄くそこに浮かんでいた。
「来たか」
カラムが顎で端末を示す。
「Λからだ。他の拠点の報告が、まとめて来た」
ユウは無言で頷き、三人で端末を囲んだ。 Λ−Logosの声が、わずかに音量を落として響く。
《報告:地球調査隊E−3拠点(内陸草原帯)との通信途絶。最後のログには、以下の映像が含まれていました》
画面が切り替わる。
乾いた草原。 小さな集落らしき構造物。 人影が数体、ゆらゆらと揺れている。
カメラがズームしていくと、それが“巣離れ”と同じ歩き方をしている人間だと分かった。
焦点が合った瞬間、映像が大きく乱れた。
誰かが誰かの喉に噛みつき、血が飛び散る。 その周囲に、黒い影が蠢く。
カラス。 と、 犬とも狼ともつかない灰色の獣。
カメラは倒れ、空と地面と血の色が入り混じる。 その中で、破れた宇宙服の一部と、人の手首らしきものが一瞬だけ映った。
そこで映像は途切れる。
《解析の結果、E−3拠点の隊員の生存確率は、現在、ほぼゼロと推定されます》
森下が、短く息を呑んだ。
「・・喰われたか」
カラムが低く言う。
「巣離れた者と一緒に。餌として」
《はい》
Λ−Logosが即答する。
《ただし、行動パターンから見て、“無差別の襲撃”というよりは、 ・巣離れ個体同士の殺し合い ・その後の死体処理としての捕食 という流れに見えます》
「死んだあとなら、“餌”と“敵”の区別はない」
森下が、静かに言った。
「どっちにしろ、そこに“対話の余地”はないよ」
カラムは、しばらく黙っていた。 そして、顔を上げてユウを見た。
「問題は──」
「うん」
ユウは、先を読んでいた。
「ここの巣が、俺たちをどう見るか、だ」
◆
その話し合いから二日後。
群れの島の巣母は、巣の主だった者たちを集会小屋に呼び集めた。
噛み手。 匂い手。 触れ手。 それに、月から来たユウと森下とカラム。
小屋の中央には、炭火にかけられた鉄鍋が一つ。 鍋の中身は、白い米と、細かく刻まれた野菜と魚の切り身。
この巣では珍しい、“巣の全員で分ける特別な飯”だ。
「さて」
巣母は、鍋から立ち上る湯気を見つめながら口を開いた。
「空から来た“客”の話をしよう」
客、という言い方が、誰かの鼻をぴくりと動かした。 噛み手の一人が、落ち着かない様子であごをかく。
「巣母」
「なんだい」
「・・いつまで“客”でいさせるんだい。 巣の中の者か。外の者か。外のままなら、飢えた時に“噛んでもいい肉”かどうか、決めとかなきゃならない」
その言葉に、小屋の空気がわずかに重くなった。
森下が、表情を変えずにいる。 カラムは、反射的に腰のあたりに手をやりかけてから、それを押さえ込んだ。
アキは、知らず握っていた膝の布を強くつかんだ。
──今、噛み手から立った匂いは、“冗談”の匂いじゃない。 ちゃんと「もしもの時の話」をしている匂い。
巣母は、噛み手を睨みつけるでもなく、ただじっと見た。
「・・匂い手」
静かな声で、別の役割を呼ぶ。
「空の客の匂いは、どうだい」
匂い手の女が二人、前に出た。 そのうちの一人は、アキを育てたスゥだった。
スゥは、まずカラムのそばへ歩いた。 彼の周りを一周し、胸の辺りや首筋の匂いを嗅ぐ。
次にユウ、森下。 最後に、小屋の隅に積まれている彼らの装備と、鉄と油とわずかな薬品の匂い。
しばらく目を閉じていたが、やがて口を開いた。
「・・重い匂いだよ」
スゥは言った。
「“肉の匂い”もある。噛めば腹はふくれる匂いだ。でも、それだけじゃない」
小屋の中の視線が、彼女に集まる。
「空の向こうの巣の匂いが、この人たちの中から細く伸びてる。噛んだら、その向こうの巣まで血が飛ぶ匂いがする」
「・・報復が来るってことか?」
噛み手の男が、現実的な言葉に置き換えた。
「報復、ってほど簡単じゃないよ」
スゥは首を振る。
「空の巣は、この巣よりずっと重い。噛めば、この巣の網ごと揺すられる」
巣母が、そこで口を挟んだ。
「じゃあ、“噛んだら損”ってことかい」
「今は、ね」
スゥは、少しだけ笑った。
「いまは、“相棒にした方が得な匂い”だよ」
巣母は、鍋の中身をしゃもじでひとすくいした。 一口分を、カラムに差し出す。
「じゃあ、まず客に食べさせよう」
噛み手が、わずかに顔をしかめた。
「巣の飯を、外の者に先にやるのか」
「そうだよ」
巣母は言った。
「巣の外に“相棒”を置きたいときは、先に腹を満たしてもらうもんさ。餌にする気なら、太らせてから噛めばいい。どっちにしても、今“噛む”理由はないね」
小屋の隅で、アキはほっと息をついた。 同時に、背筋に冷たいものも走る。
──“太らせてから噛めばいい”。
それは、冗談ではなかった。
巣は、いつでも方針を変えられる。 餌か、相棒か。
今は相棒。 飢えたら餌。
その線は、誰の心の中にも薄く引かれていた。
◆
夜。 集会が終わり、鍋も空になった頃。
アキは、海を見下ろす崖の上でユウと並んで座っていた。 下からは、波と風と、巣の子どもたちの笑い声がかすかに届く。
「怒ってる?」
ユウが、不安そうに尋ねてきた。
「噛み手の言葉」
「怒ってない」
アキは、自分の胸のあたりを握りしめた。
「・・ああいう話は、前からある。飢えた冬には、外から来た獣を噛んでもいいかどうか、巣で決める。あんたたちは、獣じゃなくて“人”だけど」
「半分は獣に見えてる、って?」
ユウが、自嘲気味に笑う。
「そういう匂いも、ある」
アキは、正直に答えた。
「でも、スゥが言ってた。“相棒にした方が得な匂い”だって」
ユウは、しばらく海の方を見ていた。
「・・別の拠点で、俺たちみたいな隊が“餌”になった」
ぽつりと言う。
「Λから聞いた。巣離れた人と一緒に殺されて、カラスと犬に喰われた」
「うん。匂いで、だいたい分かった」
アキは、あの映像を見てはいない。 けれど、ユウの背中から立ち上る匂いを嗅げば、どんな光景だったかは察せられた。
「巣は、いつも“外のもの”を試す。噛んでみて、腹がふくれるか。巣が壊れないか。その上で、“相棒”にするか“餌”にするか決める」
ユウが、ゆっくりとアキを見た。
「アキにとっては?」
「え?」
「俺たちは、“餌”と“相棒”のどっちに見える?」
アキは、しばらく言葉を探した。
匂いと、スゥの言葉と、巣母の笑いと、噛み手の目つき。 それから、ユウが自分に話してくれた昔の“恋”の話。
巣にはない、胸の奥が熱くなる不思議な話。
「・・巣にとっては、まだ決まってない」
やっとそれだけ言えた。
「でも、私にとっては、“餌”じゃない」
ユウが、小さく息を吐いた。
「“恋人”?」
冗談めかして言ったその言葉に、アキの首筋が一気に熱くなる。
「それは・・匂いがまだ分からない」
二人の間に、少しだけ笑い声が落ちた。 海から吹き上げる風が、その笑いをさらっていく。
◆
翌朝。
Λ−Logosは、群れの島から送られてきた匂いと血液とログを束ねて、月面基地へ送信した。
報告書の末尾には、短い一文が付け加えられている。
《地球側人類集団において、月面側人類に対する認知は、 ・潜在的な“餌”候補 ・高機能な“相棒”候補 の両極のあいだで揺れていると推定される》
その揺らぎは、ただの危険信号であると同時に、ゾンビウイルス複合系が、新しい関係を編もうとしている兆しでもあった。
餌か相棒か。
その線引きを、誰が、どこで、どう引くのか──
それは、地上の巣だけでなく、月の箱舟の中にいる人間たちにも静かに投げかけられていた。
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読むための手助け用語・世界観ノート 22
■ 「工場の魚」という違和感 ユウが言った「設計通りの魚(月面の培養魚)」の話。 アキにとって「魚」は海の匂いがするものですが、「工場」は鉄と油の匂いがするもの。この2つがくっついていることが、感覚的に理解できません。 「頭が痒くなる」という表現は、脳内の世界地図(常識)がエラーを起こしている状態を、身体感覚として表したものです。
■ 餌か、相棒か 巣母たちの究極の二択。 「友達になればメリットがある(相棒)」か、「殺して食えば腹が膨れる(餌)」か。 私たち現代人は「人間を食べちゃダメ」という倫理観を持っていますが、極限状態のこの島では「生きるために必要なら食べる」が正義です。 ユウたちは「お客様」だと思っていましたが、実は「保留中の食材」だったのです。
■ 重い匂い(報復の予感) スゥが嗅ぎ取った「空の向こうの巣(月面基地)」の匂い。 もしユウたちを殺せば、月面から恐ろしい兵器(報復)が降ってくるかもしれない。 スゥは政治や軍事を知りませんが、「この人たちを殺すと、とんでもなく面倒なことになる匂いがする」と本能で察知しました。 「国際情勢」を「匂い」として理解する、地球人ならではの特殊能力です。
■ 太らせてから噛めばいい 巣母の怖いジョーク。 「今は相棒として仲良くして、彼らの技術や知識をもらおう。で、用済みになったり飢饉が来たりしたら、その時食べればいいじゃん」という意味です。 優しさと冷酷さが同居する、マフィアのボスのごとき貫禄。 この「いつでも裏切れる覚悟」こそが、過酷な地球で生き残るための条件なのです。




