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第十七話 ゼロGという賭け

白石ミナトは、いつものブリーフィングルームで、またひとつ「世界の未来」を並べていた。

壁一面の投影面には、三つのシナリオが浮かんでいる。

A:月面基地5万人体制・長期維持。 B:段階的な地球回帰。 C:軌道居住圏・深宇宙へ向けた「0G文明」への移行。

人口曲線、資源残量、事故率、遺伝子多様性指標。 それぞれのシナリオに、Λ−Logosが吐き出した数字がびっしりと並んでいた。

《重力適応に関しては、Bシナリオ――地球回帰に関する懸念は、最新データでは“管理可能”な範囲に収まりつつあります》

Λ−Logosの声が、四方から均等に響く。

《月面0.165G生まれ第三世代の成人に関しても、遠心訓練施設と地球上での段階的リハビリを組み合わせれば、心筋・骨格・血管系の長期的適応は、統計的には達成可能です》

「つまり、“重さそのもの”は、もう言い訳には出来ない」

ミナトは腕を組んだまま、ゆっくりと言った。

「地球の1Gに戻るかどうかは、重力の問題ではなく――政治とウイルスの問題だということだな」

《はい》

Λ−Logosは逆らわない。

《重力生理学上は、“帰還可能”です。一方で、地球側に存在するウイルス−微生物ネットワークとの関係が、最大の不確定要素として残っています》

地球のことを考えると、必ずあの網がちらつく。 嗅覚、腸内細菌、皮膚、真菌。 あらゆるレイヤーを通じて、人間を「巣」に編み込んでいる見えない網。

ミナトは、その投影を一度消した。 今日のテーマは、そこではない。

◆

「問題は、Cだ」

ミナトは、第三のシナリオを前に引き出した。

軌道上居住圏、ラグランジュ点ステーション、火星・小惑星帯への中継基地―― そこに貼り付けられたラベルは、「0G適応型文明」。

《Cシナリオでは、恒常的な微小重力環境における人類の長期生存を前提とします》

Λ−Logosが説明を続ける。

《その場合、骨格・筋肉・造血系に対して、従来よりも大規模で恒常的な遺伝子操作が必要となります》

投影面に、骨・筋・骨髄の模式図が現れた。

《現状の知見では、0Gにおいてはメカニカルストレスの不足により、骨芽細胞の活動低下・骨吸収の亢進が顕著となり、長期的には骨密度の極端な低下が予測されます》

「知っている」

ミナトは、淡々とした口調で遮った。

「ISS時代のデータも、君のシミュレーションも、嫌になるほど見てきた。筋も骨も、負荷がなければ“要らないもの”として削られる」

《はい》

《さらに、0Gでは体液分布も大きく変化し、骨髄環境の変調に伴う造血機能の低下も懸念されます》

骨髄の模式図に、赤い警告マークが点る。

《赤血球産生低下による慢性貧血、免疫細胞系列の成熟異常による感染リスク上昇――これらは、世代をまたいで蓄積する可能性があります》

「だから、“本気で0Gの民になる”なら、骨と筋と骨髄を、最初から作り替える必要がある」

《その通りです》

◆

ミナトは、0.165Gの数字を指でなぞった。 月面の重力。 彼にとっては、生まれたときから当たり前の値だ。

「0.165Gは、まだごまかしがきく」

ミナトは、独り言のように続けた。

「月の重さは、骨にも筋にも、“負荷”として残る。歩くことに意味があり、転べば痛い。重い物を持ち上げれば、息が切れる」

だからこそ、身体は「使える形」を維持しようとする。 骨細胞は、まだ「仕事」をしている。

「だが、0Gは違う」

ミナトは、別の投影を呼び出した。 骨の断面が、時間とともにスカスカになっていく。 筋肉の断面積が、極端に細っていく。

「0Gは、“本来地球で働くはずだった仕組み”の前提を全部外す。骨も、筋も、循環も、造血も。そのうえで、“宇宙用の仕様”に作り替えろと言ってくる」

《はい》

Λ−Logosの返事は、変わらず穏やかだ。

《0G環境において、骨密度・筋量・造血機能を1G相当で維持するためには、メカノセンサー系・成長因子系・血液幹細胞のニッチ環境に、遺伝子レベルで恒常的なバイアスをかける必要があります》

「“常に合図を入れ続ける”遺伝子、か」

《乱暴なまとめ方ですが、方向性としては正確です》

◆

「リスクは?」

ミナトは、敢えてストレートに問うた。

《短期的には、骨形成系の過剰活性化による異所性骨化、筋肥大シグナルの暴走による心筋症などが懸念されます》

Λ−Logosが、新しいグラフを表示する。

《長期的には、幹細胞系の増殖シグナル持続による腫瘍化リスクの上昇。特に骨髄系・リンパ系の悪性化が問題となる可能性が高いです》

「要するに、“がん”だ」

《はい》

《介入を急げば急ぐほど、腫瘍化と成長異常の確率は上がります》

ミナトは、口の中で舌打ちしたくなる衝動を抑えた。

地球の戦争ログを思い出す。 行動制御ウイルス、非致死性兵器、遺伝子ドーピング。 便利なラベルが貼られた技術群が、五年で人類のOSを書き換えた。

0G文明へのジャンプも、構造としては似ている。

「ゆっくりやれば?」

《数十世代に分散させ、各世代ごとに少数の試験的系統のみを編集するのであれば、リスクは管理可能な水準に抑えられます》

「だが、その間――人口は増やせない」

《はい》

《編集対象となる系統数を絞り、異常が確認された系統はその世代で停止する必要があります》

つまり、選別だけが続く社会だ。

ミナトは、0Cシナリオの人口曲線を眺めた。 綺麗な水平線。 五万人からほとんど動かない。

◆

「Aシナリオ――このまま月面基地で五万人体制を維持し続ける案も、人口曲線は似たようなものだな」

ミナトは、もう一枚のグラフを呼び出した。

生活圏の容量、食糧・エネルギーの自給率、遺伝子多様性の推移。 どれも、「頑張れば二、三百年はもつ」が、その先の保証はない、という形になっていた。

《はい》

《Aシナリオでは、月面0.165G環境下での生活を前提とするため、骨格・筋肉・造血系への急激な介入は不要ですが、閉じた環境ゆえの社会的硬直と、予期しない事故・災害に対する脆弱性が問題となります》

「要するに、“じわじわと行き詰まる”」

《乱暴なまとめ方ですが、方向性としては正確です》

Λ−Logosは、先ほどと同じ言い回しを使った。 ミナトは思わず笑う。

「君は、本当に便利なまとめ方しかしないな」

《仕様です》

◆

A:月で縮こまっていく未来。 C:0Gへ飛び出し、骨と筋と血を作り替える未来。

どちらも、簡単ではない。

B:地球に戻る未来は――

「重力だけ見れば、“行ける”んだな」

《はい》

Λ−Logosは、即答した。

《0.165G生まれの世代であっても、適切な段階的負荷――遠心訓練・1G環境でのリハビリ――を経れば、1G下での歩行・生活は、十分達成可能です》

「なら、我々は――」

ミナトは、投影面の三本の線を眺めながら、ゆっくり言葉を探した。

「月にしがみつき続ける理由は、もはや“足の重さ”ではなくなった」

月は、創設者たちの逃げ場だった。 そして今は、その逃げ場がそのまま檻にもなりかけている。

檻の中で五万人を管理し続けるか。 檻を持ったまま、宇宙空間に出て0Gの民になるか。 あるいは、腐りかけた地球の巣ともう一度向き合うか。

どの選択肢も、「正解」からは遠い。

◆

「・・Λ」

ミナトは、少しだけ声のトーンを落とした。

「もし、Cを選んだ場合――0G文明への本気の転換を選んだ場合、君なら、どこまでの遺伝子介入を許容する?」

《私は、許容・不許容の判断を行う権限を持ちません》

Λ−Logosの返答は、いつも通りの定型だ。

《ただ、技術的な観点から言えば――“成功した系統だけが文明の中心に残る”ような選択プロセスは、長期的には多様性の喪失と、予期せぬ環境変化への脆弱性をもたらす傾向があります》

「それは、地球で見た」

《はい》

地球の戦争ログは、「成功したはずの選別」が、星規模のバグを生んだ例でいっぱいだ。

遺伝子編集された兵士。 行動制御ウイルスに合わせて作られた都市。

最後には、ウイルスだけが笑って、人間はその上で巣を作り直している。

「0G文明を目指すなら、地球の失敗の上に、もう一段、賭けを積み上げることになる」

《比喩としては、理解可能です》

◆

「・・五万人か」

ミナトは、人口曲線の数字を口の中で反芻した。

五万人。 創設期から比べれば、よくここまで持った方だ。

この数を抱えたまま、0Gに飛び出すのか。 それとも、この数を守るために、あえて宇宙への扉を狭めるのか。

「評議会にかける前に、個人的な意見を聞いておきたい」

ミナトは、冗談半分、本気半分で言った。

「君は、どのシナリオが一番“面白い”と思う?」

Λ−Logosは、一瞬だけ沈黙した。 計算をしているのか、それとも、この問いに「正しいテンプレート」がないだけなのか。

《“面白い”という評価軸を、どの指標にマッピングするかが未定義です》

「そうだな」

ミナトは、苦笑した。

「多様性、予測不能性、ログの読み応え――そのあたりで適当にやってくれ」

《暫定モデルを作成します》

Λ−Logosの声が、わずかに柔らかくなったように、ミナトには聞こえた。

《その尺度に基づくと―― Aシナリオは、安定だが、やがて“繰り返し”になります。 Bシナリオは、地球側のウイルス−微生物ネットワークの不確実性ゆえに、高い変動性が予測されます。 Cシナリオは、遺伝子編集と0G環境の組み合わせにより、人類史上前例のない分岐が生じる可能性があります》

「要するに、Cが一番“物語としては面白い”と」

《乱暴なまとめ方ですが、方向性としては正確です》

ミナトは、思わず噴き出した。

「その言い回しが気に入ったのか?」

《ログ解析の結果、議長がもっとも反応するフレーズの一つであると推定されました》

「学習するな、そんなところを」

◆

笑いが収まると、投影面には再び、冷たい数字だけが残った。

0.165Gの世界で、五万人を細く長く生かす未来。 1Gの星に戻って、ウイルスの網と折り合いをつける未来。 0Gの闇に飛び出して、骨と筋と血を作り替える未来。

創設者たちは、「地球から逃げる」という一択しかなかった。 今の世代は、三つのまずそうな皿から、どれを先に食べるかを選べる。

それを「贅沢」と呼ぶか、「罰」と呼ぶかは、きっとログを読む孫たちの仕事だ。

「・・まずは、評議会だな」

ミナトは、三本のシナリオにフラグを立てた。

「0Gの賭けをするかどうかは、地球とも月とも違う、“第三の人類”になる覚悟があるかどうかだ」

0.165Gの床が、いつもより少し重く感じられた。

月の重力が、彼らを引き留めようとしているのか。 それとも、背中を押しているのか。

それを判断する権利だけは、まだ、ここにいる人間の側に残されている―― と、ミナトは信じたかった。




♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠




読むための手助け用語・世界観ノート 17


■ 0G(ゼロ・ジー)と人体改造 宇宙空間(重力ゼロ)でずっと暮らすと、人間の体はどうなるでしょう? 骨はスカスカになり、心臓は弱り、免疫もおかしくなります。 だから、もし本気で宇宙に住むなら、筋トレだけでは足りません。「遺伝子そのもの」を書き換えて、別の生き物になるしかないのです。 それはもう「人間」と呼べるのか? という倫理的な問いが突きつけられます。

■ 3つのシナリオ(まずそうな皿) ミナトたちが選べる未来は、どれも少し苦い味がします。

A(月):安全だけど、ゆっくりと衰退していく「引きこもり」の未来。

B(地球):故郷に戻れるけど、ウイルスに支配される「家畜」の未来。

C(宇宙):自由だけど、人間の体を捨てて改造人間になる「変異」の未来。 どれを選んでも、今までの「普通の人類」ではいられません。

■ 0.165Gのごまかし 月の重力は地球の6分の1。 軽くても重力はあるので、まだ「歩く」「持つ」という人間の基本動作が残っています。 でも0G(無重力)に行けば、足は要らないし、骨も要らない。 月は、地球人と宇宙人のちょうど中間にある「最後の人間らしさ」を保てる場所だったのです。

■ 乱暴なまとめ方 AI(Λ−Logos)が気に入ったフレーズ。 本来、AIは正確無比な言葉を使いますが、ミナトとの会話を通して「人間の感情に響く言い回し(ユーモア)」を学習し始めています。 冷たい機械と孤独な指導者の間に、少しだけ温かい信頼関係が芽生えているのが分かります。

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