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第十六話 月の評議会

地球は、窓の外で欠けていた。

月面基地・中央ドーム最上層。

厚い遮蔽ガラスの向こうに見える青白い球体は、薄い雲の筋さえ見えそうで、しかし光学フィルターと放射線シールドに削られて、どこか作り物めいていた。

この階は「評議会フロア」と呼ばれている。

だがここに座る者たちは、決して最初にここへ逃げてきた「創設者」その人たちではない。

初代たちは、もうとっくに死んでいる。

放射線の濃い初期ドームを駆け回り、 地球の資産を切り捨てる決断をし、 互いの首を絞め合い、 そのすべてをログに残して。

五十にも届かず倒れた者も多かった。 六十まで生きた者は、むしろ幸運と言えた。

今、円形の机を囲んでいるのは、その子と孫たちだ。

創設者の会議ログと投資計画と罵り合いの記録を、 「教科書」として暗記させられて育った世代。

白石ミナトも、そのひとりだった。

◆

評議会ホールの床は、一般居住区よりも十メートル深い。

そのさらに下、地下百メートル相当の位置には、完成したばかりの「コア・シェルター」が眠っている。

水氷とレゴリスの厚い層、軽元素素材の層、中性子遮蔽材。 その組み合わせで、そこにいる子どもたちの年間線量は、地球時代の地表と変わらない水準まで抑えられている。

――間に合うのは、彼らだけだ。

ミナトは、そんなことを思いながら手元の端末を見下ろした。 そこには、数分前に Λ−Logos から届いたファイル名が並んでいる。

――地球側フィールドレポート#72:森下千景(医官) ――ウイルス−微生物ネットワーク暫定モデル v3.1 ――感染リスク評価(隊員/基地/バイオスフィア) ――対地政策シナリオ案 α/β/γ

平均寿命六十。 医療と深い居住区をフルに使っても、自分たちが七十まで伸ばせるかどうか。

いま、コア・シェルターで眠っている子どもたちは、もしかしたら八十まで行くかもしれない。

――その将来に、どんな OS を渡すか。

今日の議題は、突き詰めればそれだった。

「定刻だ。始めよう」

ミナトが言うと、円卓の周りで数人がわずかに姿勢を正した。

旧エネルギー帝国の子孫、レオン・イスカンダル。 月面人口の遺伝子設計を担うヘルマー・ライン現当主、ソフィア・ヘルマー。 かつて地球の情報プラットフォームを支配した財団分家にして倫理委員会代表、天城サエ。

その周囲を固めるのは、各家門が送り込んだ執行担当者たち。 全員が、かつて「最高知能」「最高運動能力」「最高芸術性」と分類され、選び抜かれた血統だ。

五百人の警備兵と技術者と、その家族たちは、彼らにとって「大事な資産」ではあっても、「評議会の椅子」に座る仲間ではない。

「議題は一つだ」

ミナトは、Λ−Logosのホログラム投影面に視線を向けた。

「地球地表で確認された“新しいネットワーク”について。現地医官とAIの解析を踏まえて、我々の資産とリスクをどう評価するか」

Λ−Logosのアイコンが、静かに点滅する。

「要約を」

ミナトが告げると、ホールの照明が一段階落ちた。 中央の空間に、半透明の球体が浮かび上がる。

無数の点と線が、その内部をびっしりと埋め尽くしていた。

◆

《地球生存圏における、ウイルス−細菌−真菌−宿主細胞ネットワークの暫定モデルです》

Λ−Logosの声が、静かに降る。

《森下医官による現地サンプル解析、および隊員の血液・粘膜・腸内サンプルから――“単一の病原体”というより、“星規模の情報処理系”として振る舞う構造が確認されました》

「情報処理系?」

天城サエが眉を寄せた。 倫理委員会代表でありながら、この場の誰よりも創設者ログを読み込んでいる女だ。

《はい》

Λ−Logosが応じる。

《嗅覚系、腸内微生物系、皮膚常在菌系、真菌ネットワークが、それぞれ局所的な“センサー”および“アクチュエータ”として機能しています。それらをウイルス配列が“ハブ”として結びつけ、宿主個体および群れ全体の行動を調整していると推定されます》

球体の一部が拡大され、嗅覚系クラスターが色付けされる。

《嗅覚系クラスターでは、匂い刺激に応じてウイルス由来の神経ペプチド様分子の放出が確認されています。腸管系では、特定の細菌群の代謝経路が、意欲や気分に関わる物質の前駆体合成を増強しています。これらが中枢神経で統合され、“巣のための行動”が選択されているようです》

「要するに、“匂いと腹とカビ”で頭を握ってるわけだ」

レオン・イスカンダルが、肘をついて低く言った。

《乱暴な要約ですが、方向性としては正確です》

◆

「致死性は?」

ソフィア・ヘルマーが、短く整えた金髪を指で払う。

《“バイオハザード五年”当時に比べ、現在観測される株の致死性は著しく低下しています》

Λ−Logosが次のグラフを呼び出す。

《森下医官の表現を借りれば、“殺す病気”から、“生かしたまま繋ぎ直す仕組み”へと遷移した、と》

「繋ぎ直す?」

《人間を、この星の他の生物圏に再統合する――という意味合いです》

ミナトは、椅子の背にもたれながら、指先で端末を軽く叩いた。 株価チャートを見るときの癖が、無意識に出る。

「地球側の生存者にとって、それは“病気”じゃなく“世界”ってことか」

《はい。彼らはそれを、“巣母の声”“巣の匂い”として認識しています。“感染症”という概念は、ほぼ失われています》

「こちらから見れば?」

天城が問う。

《感染様式だけ見れば“慢性感染”です。一方、生存戦略と安定性を考慮すると、“新たな共生形態”とも評価できます》

「どのラベルを貼るかは、ラベルを貼る側の都合、ってわけね」

天城が、薄く笑った。 祖父のログにも、似たような一文があったのを思い出していた。

◆

「ラベルは後でいい」

レオンが、端末をぱたりと閉じた。

「問題はもっと単純だ。――あの“ネットワーク”に噛まれた連中を、このドームと、その下のコア・シェルターに近づけていいかどうか、だ」

ホールの空気が、わずかに重くなる。

「森下の報告では、現時点で隊員の命に直ちの危険はない。だが、嗅覚系や腸内系には、既にネットワークの一部が入り込み始めている可能性が高い」

《はい》

Λ−Logosが肯定する。

《完全な“未接続状態”のまま長期滞在するのは、現地条件から見て非現実的です》

「つまり、無条件に帰還させれば、この閉鎖バイオスフィアと、ようやく形になった“子どもたちの未来”に、別系統の OS を流し込むことになる」

レオンの言葉に、何人かの視線が床の下を意識した。

そこにあるコア・シェルターには、各家門の幼児と、一部の有望な若者がローテーションで寝泊まりしている。

自分たちの世代は、すでに被ばくを食らいすぎている。 間に合うのは、彼らだけだ。

◆

「ソフィア」

ミナトが水を向ける。

「“遺伝子 OS”の側からは、どう見える?」

ソフィアは、ホログラムのネットワーク図を見上げたまま答えた。

「私たちのシステムは、あくまで“設計図”の選別よ。放射線耐性、既知疾患リスク、精神安定性、協調性――そういう指標で、誰と誰を組ませるかを決めてきた」

「地球のそれとはレイヤーが違う、と」

「ええ。こちらは遺伝子レベルで“生まれる前”をいじる OS。向こうは、生まれた後の匂いと腹とカビで行動をチューニングする OS」

ソフィアは、肩をすくめた。

「ただ、どちらも“群れとしての生存確率”を最大化しようとしている、という点ではよく似ているわ。一方はコードと法律で。もう一方は匂いと毒で」

「気に入らない鏡像だな」

レオンが吐き捨てるように言う。

「自分たちだけが設計者だと思っていたら、下から別の設計者が這い上がってきた、って感じか」

◆

「倫理委員会としては?」

ミナトが、天城を見た。

「まず、自覚の確認から」

天城は、わざとゆっくりと口を開いた。

「ここにいる全員、祖父母のログを読んでいるわね。――誰を見捨てて、どの資産だけ拾ったか。何億を“切り捨て”と呼び、何百万を“救出”と呼んだか」

何人かの指が、机の端を叩いた。 肯定でも否定でもなく、「知っている」という合図。

「その上で、今度は“残った七十万”をどう扱うかが問われている」

天城は続ける。

「私の立場から見れば、地球側の生存者も、降下隊員も、“人間として扱うライン”から外してはいけない。ウイルスに繋がれているかどうかは、その線の内側か外側かの基準にはしてはいけない」

「だが実際、我々の資産――コア・シェルターを含む全システム――に対するリスクは無視できない」

レオンが食い下がる。

「当然。だから Λ−Logos と森下医官が、“どの程度リスクか”を数値化してくれた。私の仕事は、その上で“どこまで人間として扱うか”の線を引くこと」

天城は、端末から一節を読み上げた。

「『このネットワークは、確かに人間の意志の一部を侵食しつつある。しかし同時に、“この星で人間がまだ生きていられる理由”にもなっている。切り離すべき“病原体”と見るか、付き合い方を学ぶべき“環境の一部”と見るかは、こちら側の価値判断でしかない』」

森下千景の文体は、どこか淡々としていた。 それでも、その行間を読もうとすれば、創設者ログに滲んでいた冷徹さと、どこか似たものが見える。

「価値判断でしかない」。 あの時代の寡頭たちも、同じ言葉を好んで使った。 だからこそ今、見透かされている気がして、居心地が悪い。

◆

「Λ−Logos」

ミナトが言った。

「感染リスクをもう一度、数字で」

《了解》

ホログラム上に、新しいグラフが描かれる。

《シナリオ α:隊員をただちに月面基地に帰還させた場合。滞在中に獲得したウイルス−微生物ネットワークが、基地内バイオスフィアに定着する確率――現時点のモデルでは21%》

「四分の一弱、か」

レオンが眉をひそめる。

《シナリオ β:帰還前に、軌道上ステーションにおいて長期隔離・検査を実施し、腸内・嗅覚系・皮膚常在菌系の入れ替えを試みた場合。定着確率は、およそ6%まで低下》

「ゼロにはならないのね」

ソフィアが、息を吐いた。

《はい。ウイルス配列の一部は、宿主ゲノムに組み込まれている可能性があります。完全な“未接続状態”への復帰は、現行技術では困難です》

「シナリオ γ は?」

《隊員を地球側に残留させ、現地共同体と共存しながら“我々の窓口”として機能させる場合。月面基地の感染リスクは、ほぼゼロに近づきます》

「つまり、“戻ってくるな”と言うのが、我々の残り二十年と、下の子どもたちの八十年を守るには、一番安い」

ミナトは、事実だけを確認するように言った。

◆

沈黙が落ちる。 この場にいる誰もが、三つの数字を頭の中で組み合わせていた。

――自分の残り寿命。 ――自分の家門の血統がコア・シェルターを使える年数。 ――地球側との接触がもたらすリスクと、得られるかもしれない利得。

創設者たちのログには、「自分の寿命」を計算に入れた形跡はあまりない。 彼らは、世界と資本の方を先に動かそうとした。

だが今ここにいるのは、放射線で縮んだ寿命を自覚している世代だ。 自分たちが間に合わないからこそ、子どもたちの八十年分の将来にしがみつく。

◆

「・・選択肢を増やすべきだと思う」

沈黙を破ったのは、天城だった。

「“帰還禁止”か“無条件帰還”かの二択にすると、結局また、祖父母の時代と同じテーブルになる」

「どういう案だ?」

ミナトが問う。

「例えば――」

天城は指折り数える。

「ひとつ。軌道上ステーションでの長期隔離・検査ののち、感染リスクを許容範囲まで抑えた上での“条件付き帰還枠”。 ふたつ。地球側に残留し、現地共同体と共に暮らしながら、我々の“現地代表”として機能する枠。 みっつ。・・これはすぐには動かせないけれど、将来的に、“限定的な接続実験”に自ら志願する枠」

「つまり、人体実験要員だな」

ソフィアが冷静に言った。

「そう見えるでしょうね」

天城は頷いた。

「だからこそ、地下で勝手にやられる前に、光の下に出してルールを決めておく必要がある。祖父母のログみたいに、『やってしまった後で正当化する』のは、もううんざり」

いくつかの家門の顔が、わずかに歪んだ。 その歪み方は、「図星だ」というサインでもあった。

◆

「・・いいだろう」

ミナトは、指先で机を二度叩いた。

「暫定方針案をまとめる」

Λ−Logosが、同時に決議テンプレートを立ち上げる。

「第一」

ミナトの声が、ホールに落ちた。

「地球側生存者に対し、“ネットワークからの強制切断”を目的とする医療・実験行為を禁止する。――当面、彼らの共同体を、そのまま一つの社会として扱う」

天城が、小さく息を吐く。

「第二」

「地球降下隊員について。軌道上に臨時隔離ステーションを設置し、ウイルス−微生物ネットワークの定着状況を精査したうえで――“条件付き帰還枠”と“現地残留枠”の二つを用意する。どちらを選ぶかは、本人に委ねる」

「本人に選ばせた、と記録できる」

レオンが、皮肉とも納得ともつかない声で言った。

「記録は重要だよ。次の世代がログを読んだとき、“まったく同じ罪”だと思われないようにするために」

ミナトは淡々と返した。

「第三」

「ウイルスネットワークとの“限定的接続”に関する研究は、無人系・培養系・AIサブユニットに限って行う。人間の被験者を用いた実験は、評議会と倫理委員会の二重承認があるまで凍結」

ソフィアが、指を組んだ。 それは、ヘルマー・ラインの支配領域を防衛するという意味でもあった。

「第四」

「地球との関係を、“感染源−被害者”だけの枠組みで捉えない。星規模の新しい OS と、我々のシステムとの“相互運用性”を探る、長期的プロジェクトを視野に入れる」

ここで、いくつかの目に投資家特有の光が宿った。 相互運用性。長期プロジェクト。 ――まだ、自分たちの死後の話かもしれないが。

◆

「以上だ」

ミナトは、決議文に署名データを送り、Λ−Logosを見上げた。

「全文を、地球降下隊に転送してくれ」

《了解》

Λ−Logosのホログラムが、一瞬明滅する。

《森下医官から、決議に付随する非公式コメントがあります。読み上げますか》

「聞こう」

《『こちらの巣は、こちらでよくやっている。 あちらの巣も、あちらでよくやっている。 どちらの巣も、自分たちを“自由だ”と思っている。 そのうちどちらかが笑い出すか、どちらも笑えなくなるか。 その前に、一度くらい同じテーブルで飯を食って話をしてみたい』》

ホールに、かすかな笑いが漏れた。

「医者にしては、ずいぶん投資家みたいな比喩を使うな」

レオンが言う。

「“巣”を“ファンド”に置き換えても、そのまま通じそうだ」

「その場合、どっちがどっちを食うかは、すぐ決まりそうだけど」

ソフィアが肩をすくめる。

「それでも、“一度くらい同じテーブルに座る”価値はあると思うわ」

天城が、小さく微笑んだ。 祖父のログには決して書かれなかったタイプの言葉だった。

◆

評議会が散会し、寡頭たちがそれぞれのモジュールに戻っていく。 ミナトは一人、ガラス天井の下に立ち尽くした。

遮蔽フィルターの透過率を少し上げると、欠けた地球の輪郭が鮮明になる。 あの青白い球のどこかで、匂いとウイルスとカビが、人間を「巣」に編み込んでいる。

この足元のさらに下では、 レゴリスと水と合金とアルゴリズムが、子どもたちを「巣」に編み込んでいる。

「・・どっちの OS も、きっと自分が“本体”だと思ってるんだろうな」

ミナトは、ポケットから古い金属片を取り出した。

地球時代のコイン。 表には消えかけた国章。 裏には、小さな地球。

創設者たちは、この硬貨で世界を回し、最後にはこの硬貨ごと世界を手放した。

次の時代の通貨は、匂いか、ウイルスか、 それとも――人間そのものか。

「さて」

ミナトは、コインを指で弾き、ポケットに戻した。

「どの巣が、最後まで笑っていられるかね」

その問いに、答えられる者はまだいない。

ただ、地球の巣と月の巣と、その下のコア・シェルターのあいだで、新しいゲームのルールだけが、静かに書き始められていた。




♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠




読むための手助け用語・世界観ノート 16


■ コア・シェルターと「間に合う世代」 月面基地は安全に見えますが、実は初期の粗悪な作りのせいで放射線がダダ漏れです。 今、評議会に座っている大人たち(ミナトたち)は、もう十分被ばくしてしまっていて、寿命は60歳前後まで縮んでいます。 だからこそ、彼らは自分たちのためではなく、これから育つ「孫たち」を完璧な地下シェルターで守ろうとしています。 「自分たちは間に合わないけど、子供だけは助けたい」という親心が、冷徹な政治判断の裏にあるのです。

■ 2つの「巣のOS」

地球のOS:匂いと本能(ウイルス)で、個人の行動をコントロールする。

月のOS:法律と遺伝子操作(AI)で、個人の人生をコントロールする。 どちらも「個人の自由」より「群れの生存」を優先するシステムです。 ミナトたちは地球を「未開で野蛮だ」と見下していましたが、よく見れば自分たちも同じ穴のムジナだったことに気づき始めています。

■ 「記録(ログ)」という名の贖罪 評議会のメンバーは、かつて祖父母たちが地球を見捨てたときの記録(ログ)を読んで育ちました。 彼らが「本人の選択に任せる」という回りくどいルールを作ったのは、自分たちが死んだ後、子供たちに「おじいちゃんたちは残酷じゃなかったよ」と言い訳するための記録を残したいからです。 大人のズルさと、切実さが混ざった人間臭いシーンです。

■ どちらが「本体」か パソコンにOSが2つあったら、どっちがメインか喧嘩になりますよね。 地球(ウイルスOS)と月(AI OS)。 今はまだお互いに距離を取っていますが、いつか必ず「どっちのルールで人類を管理するか」を決める戦いが始まります。 ミナトが投げたコインは、その賭けの始まりを暗示しています。

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