第四話 試験航海
西暦2507年10月5日
首都惑星アルヴィオン 公転軌道上
出港より二時間後
「潜航予定座標まで、30秒」
ノエルの声が発令所に響く。
その途端、発令所の空気が変わった。
これまでの通常空間航行とは違う。ここから先が、〈エデン〉の本来の領域だった。
「総員、潜航配置」
レイの号令。
『総員、潜航配置』
艦内放送。
各区画の隔壁が閉鎖されていく。
金属音、因果隔壁が閉まる音、機関室の核融合炉のわずかな振動。
それぞれが独立した現実領域として保護される。
『機関室より艦橋。ワープリング、全基起動可能』
「リング起動」
レイの声と共に、艦体を取り囲む巨大な環状構造物へ、順番に光が走った。
外部空間が微かに歪み始める。
「第一リング、位相同期」
グレンの声。
「第二、同期」
「第三、同期」
イリスの前の表示に、一本の数値が現れる。
「現実保持場、形成開始」
アリシアは息を呑んだ。
貨客船では、艦が進み続けることで存在を保っていた。
だが〈エデン〉は違う。
今、この船は、自分自身の現実を作ろうとしている。
「現実保持率、100%」
イリスの報告。
「因果軸固定」
続いてノエル。
「潜航航路、異常なし。レイヤー1進入点確定」
『水雷より艦橋。全発射管閉鎖、因果隔壁固定』
『機関室、主機正常』
「通信?」
「基地通信、正常。潜航後は予定通り通信制限へ移行します」
ルカの報告は真面目だった。
レイはしばらく表示を見て、アリシアに確認させる。
「副長」
「はい」
アリシアは一つずつ確認する。
艦、因果率、武器、そして乗員。
訓練で何度も復唱した確認文。だが今日は初めて、本物の艦で言う。
「艦、よし」
一拍。
「因果率、よし」
水雷系統。
「武器、よし」
最後に全表示を見る。
「──全て、よし」
レイが頷いた。
「潜航」
その瞬間。
〈エデン〉前方の宇宙が、縦に裂けた。
一本の細い線。
それが左右へ押し広げられていく。
まるで見えない巨大な手が、星空そのものを二つに割っているようだった。
裂け目の向こうに星はない、光もない。ただ、人間の感覚では距離さえ測れない、暗い亜空間が存在している。
「レイヤー1境界、開放」
イリスの声。
「位相勾配推進機、微速」
艦首が裂け目へ入る。
通常空間の星々が左右へ流れていく。
後方では、通過した場所から宇宙が静かに閉じていった。
アリシアは息を止めていた。
数秒、あるいは、それ以上だったのかもしれない。
発令所の照明に変化も、揺れもない。
けれど外部センサー表示から、星がすべて消えた。
「境界通過」
イリスが告げる。
「レイヤー1進入」
続いてノエル。
「現在遷移率、0.3A/c」
アリシアは外部表示を見た。
貨客船から見た亜空間とは、少し違う。
あの時は、人間のために処理された映像だった。
今〈エデン〉の探知装置に映っているものは、もっと生々しい。
方向の定まらない位相の揺らぎ、遠近感の存在しない影。何もないように見えて、どこかに何かがある。
「どうだ、副長」
レイが訊いた。
「……不思議です」
「それだけか?」
「少し怖いです」
正直に答えた。
レイはわずかに口元を緩めた。
「正常な反応だ」
「艦長は怖くないんですか?」
「怖いから調べる」
アリシアは少し驚いた。
てっきり「怖くない」と答えると思っていた。
そしてレイは前を見る。
「未知とは、本来そういうものだ」
そして──
「航法長」
「はい」
「予定通りレイヤー2へ」
「了解。深度変更準備」
ノエルが操作を始める。
アリシアも副長席へ深く座り直した。
そして最初の試験の時間がやって来た。
ただ、試験自体は驚くほど順調であり、目立ったトラブルはまだ起きていない。
「遷移率、1.8A/c。安定」
「リング位相差、許容範囲内」
「予定航路からの偏差、0.03」
レイヤー2。
通常の軍用艦艇でも利用することのある深度を、〈エデン〉は何事もなかったかのように進んでいた。
アリシアは副長席から各部署の表示を確認する。
正面の航法席ではノエルが片手で航路図を操作しながら、もう片方で次の深度変更予定を確認している。
「艦長、このままなら予定より12分早く試験海域へ到達できます」
「早い必要はない。予定通りでいい」
「了解」
ノエルは素直に速度を維持した。
「せっかく性能が出るんだから飛ばせばいいのに」
通信席からルカが口を挟む。
「試験は競争じゃないのよ」
アリシアが返す。
「そうだけどさ」
「それに、高速航行すれば航跡が増える」
イリスが視線を端末から動かさず補足した。
「今は推進機の静粛性も測定中」
「はいはい、そうでした」
ルカが肩をすくめる。
数日前まで同じ教室にいた者たちが、それぞれの持ち場に座っている。
不思議な感覚だった。
だが、いざ仕事となれば、皆が自分の役割をきちんと理解していた。
第94期生は伊達ではない。
そう思える程度には。
「位相勾配推進機、停止」
レイヤー3。
レイの命令とともに、〈エデン〉の遷移率が落ち始めた。
少しずつ亜空間での絶対速度が下がっていく。
そして──
「遷移率、0.0A/c」
ノエルが報告する。
「完全停止しました」
アリシアは思わず外部表示を見た。
当然ながら、何も変わらない。
亜空間には地面もなければ、止まったことを示す風景もない。
だが数字だけが、〈エデン〉が本当に停止したことを示していた。
「現実保持率」
レイが尋ねる。
「現在、99.98%」
イリスが答える。
「リング位相、全基安定。因果軸の偏差もありません」
「よろしい」
レイの口調には、成功を喜ぶ様子すらない。
まるで最初からそうなると分かっていたようだった。
「……本当に止まってるんだよね?」
ルカが呟く。
「止まってる」
イリス。
「でも、浮上しない」
「だから潜航艦なんだろ」
水雷管制室からカイの声が入る。
ルカは少し感心したように、
「なるほどなぁ」
と呟いた。
アリシアも同じ気持ちだった。
高速貨客船では、最低維持遷移率を割れば通常空間へ弾き出されると説明された。
だが今、自分たちはその最低線を完全に越えている。
それでも〈エデン〉はここにいる。
亜空間の中に、自分たちだけの小さな現実を抱えたまま。
「因果士」
「はい」
「静粛状態での索敵能力を測定する。試験標的を放出」
「了解」
数分後。
船体後部から小型の無人標的が放たれた。
標的は自力で移動を始め、わざと位相航跡を引きながら離れていく。
「接触──」
イリスの声がすぐに響いた。
「方位214。推定遷移率0.6。距離……」
一拍。
「32万4000」
「識別」
「試験標的。航跡波形一致」
「追跡継続」
アリシアが表示を覗く。
そこに映っているのは船影ではない。
淡い線。
何もない暗闇に残された、見えない傷跡のようなものだった。
「こんなので分かるの?」
ルカが思わず訊いた。
「分かる」
「どこが?」
「揺らぎ方」
「……それ説明になってる?」
「因果士には分かるの」
ノエルがくすりと笑った。
「イリスちゃん、こういう時だけちょっと得意そうよね」
「事実を言ってるだけ」
「はいはい」
イリスは不満そうだったが、眼鏡の奥の目だけは確かに少し得意げに見えた。
そして水雷試験は、さらに簡潔だった。
「一番管、試験弾装填」
『……こちら発射管、装填完了』
カイの声と発射管室の乗組員の声が順番に聞こえた。
「外扉、因果同期開始」
発射管内の状態表示が変わる。
艦内側の現実保持場と、外部の亜空間。
その二つを繋ぐため、発射管内部だけが一時的に艦本体とは異なる因果状態へ移行する。
アリシアはその表示を見て、少し緊張した。
潜航艦の魚雷発射管は、艦内でも特に危険な区画だと教えられている。
外と内。
二つの「現実」を直接接続する場所だからだ。
『外扉同期完了』
「発射」
「発射了解。一番発射」
『一番管、発射』
衝撃はほとんどなかった。
表示上で一つの光点が〈エデン〉から離れ、急速に遷移率を上げる。
「魚雷、正常航走」
カイの声に少しだけ熱が混じった。
「誘導開始。試験標的捕捉」
光点は一度レイヤーを浅くし、標的の航跡を横切るように進路を変える。
「着弾判定」
数秒後。
標的の反応が消えた。
「命中」
カイが短く言う。
その声だけで、満足しているのが分かった。
「嬉しそうね」
アリシアがカイへ言う。
「仕事なので」
「そういうことにしておくわ」
試験航海二日目。
〈エデン〉はレイヤー3.4付近で停止していた。
「因果率って、結局なんなの?」
休憩時間。
ルカが食事用のパックを片手に、唐突にそんなことを言い出した。
アリシアは向かいの席から彼を見る。
「急にどうしたの?」
「いや、今日の訓練資料」
ルカが端末を見せる。
そこには、現実保持率、因果率、因果偏差と言った、似たような用語が並んでいる。
「授業でもやったけど、正直よく分かってない」
「よくそれで卒業できたわね」
「通信科なんだって」
「それ万能の言い訳じゃないから」
横でノエルが笑った。
「でも、ちゃんと説明しろって言われると難しいわね」
「簡単」
イリスが答えた。
全員がそちらを見る。
「例えば」
イリスはテーブルの上にスプーンを置いた。
「今、このスプーンがここにある」
「うん」
「ここにある原因がある」
「置いたから?」
「そう」
イリスは頷いた。
「誰かが持ってきた。ここに置いた。だから、ここにある」
次に、スプーンを少し移動させる。
「普通の世界では、原因が先。結果が後」
「当然だろ?」
「通常空間なら」
その一言に、ルカが少し黙る。
「亜空間では、その順番が完全ではないことがある」
「……例えば?」
「落とした後で、落とす前のスプーンが観測される」
「嫌だな」
「あるいは、まだ撃っていない魚雷の航跡が先に見える」
「もっと嫌だな」
ノエルが苦笑する。
「因果率っていうのは、その『原因と結果がどれだけ正しい順番で繋がっているか』を表すものだと思えばいいの」
アリシアが補足した。
「深く潜るほど、その繋がりが曖昧になる」
「そう」
イリスが頷く。
「レイヤー1や2なら、ほとんど通常空間と変わらない。レイヤー3から少しずつ異常が増える。レイヤー4では……」
「では?」
「分からない」
イリスは淡々と答えた。
「観測例が少ないから」
「で、明日そこに行くと」
「うん」
ルカはしばらく黙った。
「今から怖くなってきた」
「今さら?」
アリシアが呆れる。
ノエルが優しく笑った。
「大丈夫よ。怖がるくらいがちょうどいいの」
「航法長までそんなこと言う?」
「怖くない人の方が、危ないところまで行っちゃうもの」
その言葉に、アリシアは無意識にレイを思い浮かべた。
だがあの艦長は、初潜航の時に言っていた。
──怖いから調べる。
案外、彼も同じなのかもしれない。
翌日
「現在深度、レイヤー3.7」
イリスの報告。
「現実保持率99.6%」
数字が、これまでより目に見えて落ちている。
「リング負荷上昇」
グレンの声が発令所へ入る。
『まだ余裕はある。だが三・八を越えたら注意しろ』
「了解」
レイは短く返した。
「航法長」
「予定航路上、異常ありません」
ノエルの表情も、いつもより少し硬い。
「深度変更継続」
「了解。L3・8へ」
わずかな沈黙。
アリシアは、自分の周囲の空気そのものが少し重くなったような錯覚を覚えた。
もちろん実際に重力が変化したわけではない。
だが、艦内の時計が一瞬だけズレた。
壁面表示。
腕時計。
副長席の端末。
三つの時刻が、一秒にも満たない間だけ一致しなかった。
「……今の」
「因果偏差」
イリスが即座に答える。
「〇・〇〇二秒。許容範囲」
「これが……?」
「そう」
アリシアは少しだけ喉が乾くのを感じた。
まだレイヤー4には入っていない。
その手前で、すでに通常空間の常識がわずかに崩れ始めている。
「艦長」
「どうした」
「本当に、この先へ?」
「そのために来た」
レイは変わらない。
アリシアは少し息を吐いた。
「……了解しました」
その時だった。
「艦長」
その時声を発したのは、ルカだった。。
彼が何かを言うということは、外部から通信が入ったのかもしれない。
「どうした?」
「定時通信窓に入ります。王国方面から暗号通信多数」
「読み上げろ」
ルカが受信した命令文を見る。
その一瞬、ルカの声が止まった。
「……艦長」
先ほどまでの軽い調子ではない。
「優先度、特級です……」
アリシアが顔を上げる。
「内容は?」
「王国政府より全軍宛」
ルカが息を呑む。
「大辰帝国との領有権交渉が、決裂……」
艦橋が静まり返った。
レイだけは表情を変えない。
「続けろ」
「帝国側は交渉代表団を帰還させました。同時に……」
ルカの声がさらに低くなる。
「国境方面で大規模な艦隊行動を確認」
「規模は?」
「現在確認中。ただし……」
別の情報が入ったらしい。
ルカの表示が急速に更新される。
「……追加情報によると、帝国第七艦隊と思われます」
アリシアの胸が冷えた。
「第七艦隊……」
ノエルが呟く。
王国軍人なら、その名前を知らない者はいない。
王国の仮想敵、大辰帝国の有する規模、練度共に非常に高水準な遠征任務艦隊である。
多数の巡洋艦と駆逐艦、中核戦力として航空母艦とその護衛艦、場合によっては潜航艦隊も随伴しているだろう。
王国という小規模な星間国家を攻撃するには、十分すぎる戦力だった。
「進路は?」
レイが訊く。
「帝国境界線からアルヴィオン星系方面です」
「こちらへ向かっているの?」
アリシア。
ルカは答えなかった。
答えられなかった。
代わりに、イリスの端末が短く警告音を鳴らす。
彼女が何かを確認する。
「艦長、長距離因果観測に微弱な乱れを観測」
「距離は?」
「まだ遠い。計測は困難」
イリスは眼鏡の奥で目を細めた。
「でも、大規模な艦隊航跡が生じれば……亜空間全体に痕跡が残る」
「まさか、帝国艦隊?」
「断定はできない」
イリスは一拍置いて、重い言葉を続けた。
「ただし、数は多い」
アリシアは自分の手が僅かに強張っていることに気づいた。
ほんの数日前まで、彼女たちは士官学校を卒業したばかりだった。
この航海だって、本来は新造艦の性能を確かめるための訓練に過ぎない。
なのに、その外側で、何かが動き始めている。
「艦長、追加命令を受信」
ルカが言う。
今度は全員がそちらを見る。
「読み上げろ」
「王立宇宙軍総司令部より、深層試験潜航艦〈エデン〉へ」
ルカが一度息を整える。
「本艦は国家機密指定艦であり、現在の情勢下において戦闘行動への参加を禁止する」
アリシアが僅かに目を見開く。
「予定海域より離脱せず、潜航状態を維持したまま待機せよ。また、敵性勢力による発見・捕獲・拿捕を何としても回避されたし」
そこで通信は切れた。
数秒間、誰も口を開かなかった。
「つまり戦うなって、ことです……」
ルカが少し悔しそうに呟く。
「正確には」
イリスが答える。
「戦うな、見つかるな、捕まるな」
「仕方ない」
カイの声が横から入る。
彼も表情こそ普段のままだが、手が震えていたり、内心では動揺しているようだった。
「この艦そのものが機密だ。敵に渡すわけにはいかないんだろう」
「で、でもよ……」
アリシアも悔しいが、理解はしていた。
〈エデン〉は最新鋭の潜航艦ではある。
だが今この瞬間、王国にとって重要なのは戦闘力ではない。
深層潜航技術、新型リング、現実保持殻、そして因果観測設備。
そして、そのすべての設計資料。
敵に渡せば、それだけで戦略的損失になる。
「では……」
アリシアがレイを見る。
「試験は中止して、このままレイヤー3で待機しますか?」
「いや」
レイの答えは即座だった。
「L4へ潜る」
「……はい?」
アリシアだけでなく、何人かが同時に顔を上げた。
「命令は、潜航状態を維持して待機せよ、ですよね?」
「そうだ」
「なら、なぜさらに深く?」
レイは正面の深度表示を見る。
現在のレイヤーは3.8。
その下は、まだ誰も踏み込んだことのない領域だった。
「L3では見つかる可能性がある」
「帝国の潜航艦に?」
「ある」
レイは淡々としていた。
「帝国は潜航艦技術において世界でも最先端だ。レイヤー3で停止しているだけなら、時間をかければ探知される可能性は残る」
「でもレイヤー4なら……?」
ノエルの問いかけに、レイが頷く。
「既存の潜航艦は、そこまで来られない」
イリスが表示を見る。
「観測機器も、実用運用はほぼレイヤー3まで」
「そうだ」
レイはそこで初めて、少しだけ確信を込めて言った。
「レイヤー4へ入れば、現在の技術では我々を追跡できない」
「絶対に?」
「絶対とは言わない」
「……言わないんですね」
「だが、最も安全だ」
レイは続ける。
「命令は潜航状態を維持し、機密を守れ、だ」
「そのために……」
「最深部へ行く」
アリシアは黙った。
理屈は通っている。むしろ軍人として考えれば、正しい。
戦闘に加わらず、発見されないためには、敵が到達できない場所へ隠れる必要がある。
その条件を最も満たすのが、レイヤー4。
ただし、問題は一つだけ。
そこが、まだ誰も有人艦で安全性を証明していない領域だということだった。
「副長」
「はい」
「異論は?」
アリシアは一瞬だけ迷った。
だが、すぐに答えた。
「……命令違反ではありません」
「そうだ」
「そして、機密保持の観点では合理的です」
「そうだ」
レイはそれ以上何も言わなかった。
アリシアは少しだけ眉を寄せる。
「でも、だからって怖くないわけじゃありませんからね」
「それも正常だ」
レイは正面へ向き直る。
「全艦、深度変更準備」
警報灯が点灯する。
その途端、発令所の面々は慌ただしく動く。
ノエルが航路を再設定し、グレンがリング出力を上げる。イリスが因果観測系を最大感度へ。カイが魚雷管を安全状態へ固定。ルカは王国から届き続ける通信を整理する。
そこから遠い亜空間でも、大辰帝国の艦隊が静かに国境へ向かっている。
平和は、もう終わっていた。




