第8話:初めての壁と、メイドのミニ講座
「あの『熱の塊』には、今は絶対に意識を向けないこと」
リリィさんの強烈な忠告を受け、俺は体の奥底に眠るその危険な熱から意識をそらし、魔力だけを操作する訓練に入った。
「まずは、魔力を指先に集めるんだ。イメージは血液の流れを指に集中させるような感覚で」
再び木陰で横になりながら、今回は起きているリリィさんがのんびりとした声で指示を出す。
俺は自分の手のひらを見つめ、胸から腕を通って指先へと魔力を押し出そうと試みた。
(……重い。それに、すぐ霧散しちまう)
『魔力』を知覚するだけなら何とか出来た。だけど、それを意図的に動かすとなると話は全く別だった。
泥水の中で手足を動かしているような強い抵抗感があり、少しでも気を抜くと集めかけた『魔力』がすぐに散らばってしまう。
何度も何度も試行錯誤を繰り返すが、指先が微かに温かくなる程度で目に見える変化はまだ一切起きない。
「ハァ……ハァ……ダメだ、全然上手くいかない」
一時間ほど悪戦苦闘したところで、俺は膝に手をついて荒い息を吐いた。
体は一切動かしていないのに、精神的な疲労が凄まじい。頭の奥がジンジンと痺れ、これ以上は集中力が持ちそうになかった。
「……ふふ。焦る必要はありませんよ、ショウト様。初日でそこまで魔力を留められるだけでも、十分に優秀です」
いつの間にか、俺のすぐ後ろに音もなくクレスさんが立っていた。
その手には、お盆に乗せられた冷たいお茶と上品な焼き菓子が用意されている。
彼女は流れるような所作で、近くの切り株の上にクロスを敷き、即席のティータイムの場を作り上げた。
「少し休憩にいたしましょう。リリィ様も、そろそろ本気で寝落ちしそうなので」
「あ、ありがとうございます……」
木陰を見ると、リリィさんはすでにスヤスヤと規則正しい寝息を立てていた。
先日、あの恐ろしい魔物を一瞬で倒し灰に変えた、底知れないエルフと同一人物だとは未だに信じ難い。
俺はクレスさんが淹れてくれたお茶をありがたく受け取り、修行で乾いた喉を潤した。
冷たくて甘みのあるハーブティーのような香りが、疲れた脳に染み渡っていく。
「クレスさん。俺、この世界のこと……魔法とか、他の人達がどうやって暮らしているのか、全然知らないんです。もしよかったら、少し教えてもらえませんか?」
休憩がてら、俺はふと前々から思っていたことを口にした。
元の世界には帰れない。少なくとも今のところは。ならば、いつかはこの家を出て外の世界を自分の足で生きていく必要が出てくるかもしれない。
「ええ、構いませんよ。それでは何からお話しいたしましょうか」
「あ、なら、リリィさんが言ってた『冒険者』って、やっぱり国とかから仕事をもらってお金を稼ぐ職業なんですか?」
「概ねその認識で間違いありません」
クレスさんは背筋をピンと伸ばしたまま、静かな声で解説を始めた。
「『冒険者』は『冒険者ギルド』に所属し、魔物の討伐や素材の採取、護衛などを仲介する巨大な組織です。実力主義の世界ではありますが、身分を問わず登録できるため、ショウト様のように特殊な事情を抱えた方には最も適した職業と言えるでしょう」
「なるほど。じゃあ、お金ってどんな感じなんです? 俺、まだこの世界のお金って見たことなくって」
「基本的に、この世界では共通の硬貨が使われています。銅貨、銀貨、金貨といった金属の価値がそのまま貨幣の価値になります。それぞれの価値や計算方法などは、今度改めてお教えしますね」
「はい! よろしくお願いします」
クレスさんから語られるのは、ファンタジーの王道を行く常識の数々。
彼女の理路整然とした説明のおかげで、俺の中でフワフワしていた概念が、徐々に「現実の社会」として地に足のついた形に変わっていくのを感じた。
「……ありがとうございます。なんだか、少しだけこれからどうやって生きていくか、イメージが湧いてきました」
「お役に立てたのなら光栄です。ですが、ショウト様が一人で街へ出られるのは、まだずっと先のお話ですよ」
クレスさんは眼鏡の奥に光る黒曜石のような瞳を少しだけ細め、クスリと微笑んだ。
「まずは、リリィ様の苛烈な修行に耐え抜いていただかなくてはなりませんからね。手加減というものを知らない御方ですので」
「……やっぱり、めちゃくちゃ厳しいんですか?」
「ええ。泣いて逃げ出したくなるほどには」
完璧なメイドさんであるクレスさんから告げられる、一切の冗談を含まない冷ややかな宣告に、俺の背筋に冷たい汗がツーッと伝い落ちた。
魔力操作の壁、そしてこれから待っているであろう苛酷な修行。俺の異世界生活は、まだ始まったばかりだ。
※ちょっと短いので、2話連続で投稿します。(1話目)




