第46話:まもられたもの
自らの両手を抱きかかえ、暗い岩壁の隅でガタガタと震えるショウト。
その姿を見た瞬間、セレスの心臓を鷲掴みにするような痛みが走った。
「ああ……」
セレスは悟った。
彼は、自分を守るために、決して越えてはならない一線を越えてしまったのだと。
彼は元々、こんな血生臭い世界とは無縁の、平和で穏やかな場所で生きてきた普通の少年だ。
町で襲撃者たちと戦った時も、彼は自分の身を危険に晒してまで『誰も殺さない』という理想を貫こうとしていた。
それほどまでに優しく、他者の命を奪うことを恐れていた彼が。
私の命を守るためだけに、その清らかな手を血に染め、一生消えない人殺しの『罪』を1人で背負い込んでしまったのだ。
「ショウト、様……」
セレスは、重い足を引きずりながら彼のもとへ歩み寄った。
アンナを失った悲しみで今も胸は張り裂けそうだった。
けれど、今ここで彼を1人にしてしまえば、彼の心は罪悪感と恐怖に完全に押し潰され、二度と戻ってこられなくなってしまう。
「ひっ……はぁっ……はっ……!」
近づいてみると、ショウトの呼吸はいよいよ浅く、狂ったように乱れていた。
焦点の定まらない虚ろな瞳で空を見つめ、青ざめた唇が小刻みに震えている。
その全身は、氷水にでも浸かったかのように恐ろしいほど冷え切っていた。
「俺……が、殺した……。ただの、女の子を……。セレスの、大事な……っ」
「ショウト様」
セレスは、泥だらけの地面に膝をついた。
そして、彼が自身の罪を恐れるようにギュッと握りしめているその大きな両手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「あ……」
ビクッ、とショウトの肩が跳ねる。
血の穢れなどついていない。けれど彼にとっては、どんなに洗っても落ちない赤黒い血がこびりついているように見えているのだろう。
怯えるように手を引っ込めようとする彼の手を、セレスは決して離さず、自らの頬へと優しく押し当てた。
「違います、ショウト様。……貴方は、何も間違っていません」
セレスは、彼と視線を合わせるように身を乗り出し、静かに、けれどはっきりとした声で紡いだ。
「貴方がその手を汚してくれなければ……私は、確実に死んでいました」
「でも……っ! アンナは……!」
「アンナも、同じです。彼女は最期、貴方に心からの感謝を伝えて微笑んでいました。……自分が命を懸けて守りたかった私を、貴方が代わりに守り抜いてくれたから」
その言葉に、ショウトの目からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
そうだ。アンナは最期、安らかな顔をしていた。
でも、だからこそ痛いのだ。彼女の優しさを知ってしまったからこそ、奪ってしまった命の重さが、ショウトの心を容赦なく切り刻む。
「……こわい……っ。人を殺すのが……命が消える感触が、こわいよ……っ!」
ついに、ショウトの口から弱音が、本当の恐怖が溢れ出した。
無敵の騎士でも、選ばれし勇者でもない。ただ普通の少年としての、悲痛な叫びだった。
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……っ」
セレスは、堪えきれずにショウトの首元に腕を回し、その震える大きな背中を強く、強く抱きしめた。
「私のために、貴方のその優しさを、壊してしまって……! 貴方にこんな、重くて恐ろしい罪を背負わせてしまって……っ!」
「セレス……」
「でも、だから……私は一生、貴方の傍にいます。貴方が背負ってくれたこの『罪』の半分は、私を助けたことで生まれたものです。だから、私も一緒に背負います。……貴方を絶対に、1人になんていたしません」
セレスの頬から零れ落ちた温かい涙が、ショウトの首筋を伝う。
彼女の細く小さな腕は、ショウトの恐怖を全て覆い隠すように、力強く彼を抱きしめていた。
「貴方は、人殺しなんかじゃありません。……貴方は、私とアンナの心を救ってくれた、私だけの、たった1人の『騎士』様です」
その絶対的な肯定の言葉と、胸から伝わってくるセレスの温かい体温が。
ショウトの魂を凍りつかせていた恐怖と罪悪感を、少しずつ、少しずつ溶かしていく。
(俺は……独りじゃない)
人を殺めた事実は消えない。手の平に残る感触も、一生彼を苛み続けるだろう。
だが、その罪の重さを一緒に背負うと泣いてくれる少女が、今、腕の中にいる。
この温もりを守るためなら、彼は何度だって泥を被る覚悟を持てる気がした。
「……あぁ……っ、あぁぁぁぁぁぁっ……!」
ショウトは、自分を抱きしめるセレスの背中にゆっくりと腕を回し、彼女の肩口に顔を埋めた。
そして、これまでずっと気を張って堪えてきた全ての感情を吐き出すように、声を上げて激しく泣き崩れた。
死の恐怖、初めて命を奪った絶望、そして、守り抜くことができたという安堵。
様々な感情が入り混じった少年の嗚咽を、セレスはただ黙って、優しく背中を撫でながら受け止め続けた。
ジェードの悪意によって全てが破壊された広場。
その片隅で、罪を共有した2人の孤独な魂は、互いの温もりを確かめ合うように、夜が明けるまで静かに抱きしめ合っていた。




