第40話:『神剣カグツチ』
鏡のような水面に敷き詰められた真新しい畳の上。
俺は学生服姿のまま仰向けに倒れ、胸元を少女の足によってグイッと踏みつけられていた。
「どうした? 痛いか? 苦しいか? ……それとも、自分の不甲斐なさに絶望して、声を出す気力すら失せたかえ?」
自身を『神剣カグツチ』と名乗ったその少女は、和服ドレスの裾から伸びる細い足で俺の胸をグリグリと押し付けながら、真紅のつり目を細めて意地悪く笑った。
体重は羽のように軽いはずなのに、彼女の足裏からは、俺の魂そのものを焼き焦がすような凄まじい『熱』と、絶対的な『格上』としての重圧が伝わってくる。
「……お前が、あの『剣』の正体……」
「いかにも。主がいつも無様に振り回しておった、あの黒い鉄の棒の本来の姿じゃ。もっとも、これまでは儂の意識が寝惚けておったゆえ、ただの頑丈な武具としてしか使えなんだがな」
カグツチは長い黒髪を揺らし、フンと鼻を鳴らした。
「主の魂には、この世界に召喚されるずっと前から儂が宿っておった。だが、元の世界は魔素が薄すぎてな。この異世界に来て、さらにあの小娘――いや、ともかく、ようやく儂の自我も目覚め始めたというわけじゃ」
そこまで語ると、彼女はふいに笑みを消し、俺を射抜くような鋭い視線を落とした。
「だが……ようやく完全に目が覚めてみれば、なんという体たらくじゃ! それでも儂の主か!」
「ッ……!」
「相手は殺意を持って主の大事なものを奪いに来たというのに、主は命を奪う覚悟も背負えず、峰打ちだの気絶だのと生温かい真似をしておったな。そのくだらぬ偽善と自己満足の果てが、今の主の無様な姿じゃ!」
カグツチの容赦のない言葉が、俺の胸の急所を的確に抉り抜く。
「自分の手を汚さず、誰も殺さず、綺麗事だけで全てを守り抜く? ……ククッ、傲慢じゃな! 圧倒的な力を持つ神ですら成し得ぬことを、たかが人間風情が成し遂げようなどと。その『甘さ』がどれほど罪深いか、あの女に思い知らされたであろう?」
「……あぁ、そうだよ……」
俺はカグツチに踏みつけられたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。
反論なんてできなかった。彼女の言う通りだ。
俺は元の世界の倫理観を捨てきれず、人を殺したくないという自分の都合を優先した。
その結果、アンナに反撃の隙を与え、彼女に無様に敗北してしまった。
「俺が、弱かったから……。俺が甘かったせいで、セレスを……!」
涙が滲む。今この瞬間も、現実世界ではアンナの凶刃が俺の心臓に迫り、セレスが絶望の声を上げているはずなのだ。
何も守れない。こんなにも無力な自分が、たまらなく憎かった。
「……もう、終わりだ。俺はここで死んで、あいつは……っ」
「――馬鹿者がッ!!」
パンッ! と、カグツチの小さな足が、今度は俺の頬を強烈に蹴り飛ばした。
「痛っ!?」
「勝手に終わらせるでないわ、この大たわけ! 誰が死ぬことなど許した!」
蹴り飛ばされた俺が呆然と見上げると、カグツチは顔を真っ赤にして、鬼のように怒り狂っていた。
その全身から吹き上がる陽炎が、周囲の空気をジリジリと焦がしていく。
「主がジェードとかいう小悪党の力に屈し、あんな小娘一人にボロボロに傷つけられたこと……儂がどれほど腹立たしかったか分かるか!? 儂の主が、あんなちっぽけな力に蹂躙されるなど、儂の誇りが許さぬのじゃ!!」
カグツチはギリギリと歯を鳴らし、真紅の瞳に激しい怒りの炎を燃やしていた。
それは、敵に対する怒りであると同時に、俺の諦めの言葉に対する強烈な拒絶だった。
自分の主が敗北することなど、彼女のちっぽけなプライドが絶対に容認できないらしい。
「よく聞け、主よ……っ。勘違いするでないぞ! 儂は決して主が心配で助けに来たわけではない! ただ、これ以上儂の誇りに泥を塗られるのが我慢ならんだけじゃ!」
顔をプイッと背け、ツンケンした態度で言い放つカグツチ。
しかし、再び俺を見下ろした彼女の瞳の奥には、確かな『信頼』と『熱』が宿っていた。
「外の世界の時間は、今この精神世界ではほとんど止まっておる。だが、主が目覚めれば、あの小娘の刃は容赦なく主の心臓を貫き、あの娘は絶望のどん底へ突き落とされるじゃろう」
カグツチはすっと目を細め、静かに、だが絶対的な威厳を持って告げた。
「主が本当にあの娘を守りたいのなら、もはや綺麗事は通用せぬ。敵の命を奪い、自らの魂を業火で焼く覚悟を持て」
「敵の命を……奪う、覚悟……」
「そうじゃ。守るために、罪を背負え」
カグツチは俺の胸の上から退き、一歩下がって正面から俺を見据えた。
「戦意を失うな。あの娘を救う唯一の手段は、儂じゃ」
彼女は誇り高く胸を張り、燃えるような月を背にして宣言した。
「主がその手で敵を焼き尽くす覚悟を決めるなら、儂は主の剣となろう。『神の炎』をもって、主の立ち塞がる全ての理不尽を灰燼に帰してやる。……さあ、どうする、主よ!」
カグツチの声が、俺の魂の奥底に反響する。
綺麗事で誰も殺さず、自分が死んでセレスを絶望させるか。
それとも、自らの手を血で汚し、人殺しの罪を背負ってでも彼女の明日を切り拓くか。
答えなど、最初から決まっている。
俺はゆっくりと畳の上に身体を起こし、カグツチの真紅の瞳をまっすぐに見つめ返した。




