第36話:甘さの代償と清算
「……オ、ォォォォォ……ッ!」
ショウトの全身から、彼の激しい怒りに呼応するかの如く、膨大な魔力が濁流のように吹き荒れていた。
満身創痍で枯渇しかけていたはずの身体から、地を割るような地鳴りと共に溢れ出る真紅の陽炎。
その圧倒的な熱波は、周囲の空間を陽炎で激しく歪ませ、足元の硬い土を瞬時にガラス質へと変質させていく。
周囲の草木は触れてもいないのに次々と黒く炭化し、夜の静寂を切り裂くように『シュウゥッ』という不気味な熱の摩擦音が広場に響き渡っていた。
「な……ッ!? その身体で、まだこれほどの魔力を隠し持っていたというのですか……!?」
アンナの剥製のようだった無表情が、初めて明確に崩れた。
彼女の碧い瞳に宿ったのは計算外の事態に対する動揺、そして、目の前の少年が放つ圧倒的な『死』の気配に対する生物としての純粋な恐怖だった。
「限界なんて、お前らが決めるな。……セレスを傷つける奴は、誰であれ俺がブッ潰す」
ショウトは地面を強く踏み込んだ。
先ほどまでの人を殺めることを恐れていた、迷いのある動きはそこにはない。
「――くっ!」
アンナは恐怖に身体を硬直させかけながらも、辛うじて残る暗殺者としての本能で、右手に握った唯一の短剣を突き出す。
ショウトの『漆黒の剣』を受け流し、死角へ回り込もうという算段だ。
だが、今のショウトが放つ一撃は、先ほどまでとは根本的に異なっていた。
刀身に纏わりつく真紅の魔力は、アンナの短剣を触れ合うよりも早く赤黒く溶かし始める。
キン、という鈍い金属音と共にアンナの短剣は熱に耐えきれず無残に折れ、ショウトの圧倒的な膂力に押し切られる形で弾き飛ばされた。
「ぐぅッ……!?」
短剣による防御を容易く崩され、アンナの身体が大きくよろめく。
ショウトは一瞬の間も与えず、即座に踏み込んだ。
体勢を完全に崩し、無防備に晒されたアンナの脇腹へと『漆黒の剣』による重い一撃を容赦なく叩き込む。
ドガァッ!!
鈍い衝撃音が広場に響き、アンナの細い身体が弾かれたように宙に舞い上がる。
彼女は口から大量の鮮血を撒き散らしながら、地面の泥を派手に削って無様に転がった。
ショウトは流れるような動作で追撃し、倒れ伏す彼女の喉元へと熱を帯びた剣先を突きつける。
「アンナ、これで終わりだ」
ショウトの瞳に宿る冷徹な殺気に当てられ、アンナは喉を鳴らし、地面に這いつくばったまま小さく身体を震わせた。
刀身が焼き切れた短剣は既に手から離れ、完全に勝負は決したかに見える。
ようやく、彼女のジェードに対する狂信に『死』という絶対的な現実が突きつけられたのだ。
「……ふふ、ふふふ……。あははははっ!」
しかし、喉元に剣を突きつけられているにもかかわらず、アンナの口から漏れたのは、狂気に満ちた不気味な笑い声だった。
彼女は口から溢れる血を拭いもせず、鬼気迫る形相でショウトを睨みつける。
「本当に……どこまでも、どうしようもない男ですね、貴方は……! 最初からその力を使っていれば、こんなに面倒なことにはならなかったのに! なぜ、たかが人間を相手にそこまで手加減をするのですか!」
「俺はお前らとは違う。命を使い捨てるような真似は絶対にしない」
「その甘さが、その『正義ごっこ』が! どれだけ多くの破滅を招くか、まだ理解できないのですか!!」
アンナが絶叫した瞬間、彼女の身体から、ドス黒い泥のような魔力が爆発的に噴き出した。
それは、先ほどの襲撃者たちが身に纏っていたものとは比較にならないほど濃密で、悍ましい気配――ジェードから直接注ぎ込まれた『力』そのものだった。
「そんな甘ったれた覚悟で、セレスティーネさまを……あの方を闇から守り切れるなどと、思い上がらないでくださいッ!!」
アンナは恐るべき執念で顔を上げると、喉元に突きつけられていたショウトの剣を、あろうことか自らの『素手』でガシッと掴み取った。
「――ッ!?」
凄まじい密度の黒い魔力が彼女の掌から噴き出し、剣を伝ってショウトへと逆流しようとする。
刀身に纏わりつく真紅の魔力により、アンナの掌は一瞬で黒く焼けただれ、骨が焼ける嫌な臭気が周囲に立ち込める。
だが、彼女は痛覚を完全に喪失しているかのように、むしろ笑みを深めながら異常な力でショウトの剣を押し返してきた。
(なっ……! 手の火傷を完全に無視して、力任せに押し込んできているのか!?)
常軌を逸したアンナの底力。その想定外の力と悍ましい黒い魔力の奔流を警戒したショウトは、咄嗟に剣を引き抜くと同時に後方へと大きく飛び退いた。
アンナは肉が焼け焦げ、煙を上げる自らの右手を一瞥することすらなく、獲物を視界に捉えた飢えた獣のような足取りで、再びショウトに向かって凄まじい速度で突き進んでくる。
その姿には、ただ標的を屠るためだけの執念が満ちていた。
ショウトは深く息を吐き出し、驚愕で乱れた呼吸を整える。
アンナと正面からぶつかれば、あの異様な力に巻き込まれる。狙うは、すれ違いざまの一瞬。
彼女が完全に間合いに入り、ショウトの肉体を圧殺せんとして肉薄した、まさにその刹那――ショウトは限界を迎えていた下半身の筋肉を爆発させ、最小限の動きで右側へと身体を鋭く逸らした。
「そこだァッ!!」
完全にアンナの死角へと回り込んだショウトは、左手一本で『漆黒の剣』を逆手に握り直し、全ての怒りを乗せて一閃を振り抜いた。
ザシュゥゥゥッ!!
鋭い刃はアンナの右肩から胸元を深く切り裂き、そのまま反対側の脇腹へと斜めに通り抜けた。
「あ、あぁ……っ、ガハッ……!」
アンナの口から再び大量の血が溢れ、彼女の身体は糸が切れた人形のように地面へと崩れ落ちる。
血の海の中に倒れ伏した彼女の肉体は、小さく痙攣したのを最後に、完全に静止した。
しんと、広場に静寂が戻る。
立ち込める硝煙の匂いと、肉の焦げる匂い。
ショウトは『漆黒の剣』を地面に突き立て、どうにか身体を支えながら荒い息を吐き出して地面に膝をついた。
全身の筋肉が焼き切れるような痛みに襲われ、視界は激しく明滅している。
(勝った……、のか? 今度こそ……)
ショウトは震える身体を動かし、背後で無傷のまま佇んでいるセレスの方へと視線を向けた。
「……セレス……もう、大丈夫だ、から……」
霞む視界の中、どうにかセレスを安心させようと声を絞り出した、その瞬間だった。
「ショウト様、逃げて!! 後ろッ!! 早くッ!!」
セレスの引き裂かれるような悲鳴が広場に響き渡った。
「え……?」
完全に油断をしていたショウトの思考が一瞬だけ遅れた。
ショウトの一撃によって致命傷を負い、心臓を切り裂かれたはずのアンナが動くはずがない。
その常識が、彼の動きをほんのわずかに鈍らせた。
ハッと振り返ったショウトの視界に飛び込んできたのは、血溜まりから音もなく立ち上がり、幽霊のような速度で眼前にまで肉薄していたアンナの姿だった。
その顔には一切の生気がなく、ただ死者そのものの、冷酷な笑みだけが張り付いていた。
「――やはり甘いですよ。ショウトさま」
アンナは死に体のまま、全身から漏れ出る黒い魔力をその右拳へと集約させ、ショウトの胸元へ向かって叩きつける。
限界をとうに迎えていたショウトの肉体に、至近距離から放たれたその一撃を躱すだけの体力は、もう残されていなかった。
ポスッ……
軽い、まるで力の入っていないアンナの拳がショウトの胸に接触した、まさにその刹那。
「これで、お別れです」
アンナの悲し気な呟きと共に、ショウトを殴りつけた彼女の腕全体が、血管を通じてドス黒い赤色へと光を放ち始めた。
彼女は自らの肉体の崩壊すら厭わず、拳が触れたその一点に、全てのエネルギーを込めたのだ。
――――――――ッッッッ!!!!
ゼロ距離での、容赦のない起爆。
目の前が真っ白な光で塗り潰され、直後、鼓膜を完全に破壊するほどの轟音が世界を震わせた。
拳の接触面から放たれた極大の爆風と熱波がショウトの身体を無残にへし折り、彼は成す術もなく遥か後方へと吹き飛ばされた。
ドガガガァンッ!!
背後の硬い岩壁へと凄まじい速度で叩きつけられ、骨が砕ける鈍い音が響く。
ショウトの身体はそのまま地面へと力なく転がり落ち、ピクリとも動かなくなった。
手から離れた『漆黒の剣』はカランと音を立てて地に転がり、彼の意識は深い闇の底へと急速に墜ちていった。




