第35話:盤上の支配者と激情
「ショウト様ッ! ショウト様、あああっ……血が……!」
霞む視界の中で、セレスが俺の胸にすがりつき、大粒の涙をポロポロとこぼしているのが見えた。
左肩に深く突き立てられた短剣の傷からはドクドクと赤い血が流れ出し、地面の土を黒く染め上げている。
アンナの蹴りを食らった鳩尾は火のついたように熱く、呼吸をするたびに肺が引き裂かれるような激痛が走った。
「……ハァッ……、セレス……泣くな、って……」
俺は血に濡れた左手を伸ばし、彼女の震える頬に触れようとした。
だが、指先が微かに動いただけで、折れた右腕から脳天を突き抜けるような痛みが走り、腕は力なく地面へと落ちる。
「無駄な足掻きです。その傷では、もう自力で立ち上がることすら不可能でしょう」
冷ややかな足音が近づいてくる。
アンナだ。彼女は俺の血で濡れた短剣を片手に、無表情のままゆっくりと見下ろしていた。
「さあ、セレスティーネさま。こちらへ。貴女はジェード様の元へご案内しなければなりません。抵抗すれば、その男の首を今ここで刎ねますよ」
「……ッ!」
アンナが冷酷な脅迫を口にした瞬間。
セレスは俺の胸からバッと顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、両手を広げて俺を背後に庇うように立ちはだかったのだ。
「これ以上……ショウト様を傷つけることは、私が許しません!」
「退きなさい。貴女のその『呪い』は、体術や武具の前では何の役にも立たないことくらい、分かっているでしょう?」
アンナはセレスの行動に呆れたようにため息をついた。
それでもセレスは一歩も引かなかった。
彼女の眼には、恐怖を塗り潰すほどの激しい怒りが宿っていた。
「どうして……どうして、こんな残酷なことができるの! 彼らは、貴女の仲間だったはずでしょう!? なぜ彼らをあんなおぞましい爆弾にして……命をなんだと思っているの!」
「仲間、ではありませんよ。何度も言わせないでください」
アンナは一切の感情を交えず、淡々と答える。
「彼らはあの方――ジェード様から直接、偉大な『力』を注ぎ込まれた器に過ぎません。ジェード様の目的のためにその『力』を使い、己の命ごと爆発して果てることこそが、彼らに与えられた最高の誉れなのです」
「――ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、セレスの顔色が一気に青ざめ、息を呑んだ。
「ジェード……。 やはり聞き間違えではないのですね……」
セレスの唇が、恐怖と戦慄にワナワナと震え始めた。
王宮の深い闇の中に隔離されていた彼女ですら、その名には聞き覚えがあるようだった。
「他者の肉体を弄ぶ悪魔……。まさか、この洞窟へ転移させられた魔道具も、あの牛頭の巨獣も……」
「ご名答です、セレスティーネさま」
アンナは恭しく、しかし酷薄な笑みを浮かべて一礼した。
「すべては、ジェード様の偉大なる遊戯盤の上。あの牛頭の守護者も、この襲撃者たちも、貴女という獲物を追い詰めるためにジェード様が『力』を与え、造り上げた盤上の駒に過ぎません。……そう、ショウトさまがどれだけ足掻こうと、最初から勝敗は決まっていたのです」
(……ジェード、だと?)
地面に倒れ伏したまま、俺はそのやり取りを静かに聞いていた。
痛覚が麻痺しそうになるほどの激痛の中、俺の脳内に、冷たく、そしてドス黒い『理解』が広がっていく。
この異様な洞窟で俺たちを執拗に追い詰めた魔物たち。
そして、自身を敬う部下たちを『生きた爆弾』として使い捨てる、外道としか言いようのない戦法。
これらすべての地獄絵図を描き、安全な場所から見下ろして笑っている黒幕がいる。
「……ふざけ、んな」
俺の口から、地の底から這い出るような、低い声が漏れた。
「ショウト様……?」
セレスがハッとして振り返る。
俺は血に塗れた左手で地面を強く握りしめ、ボキボキと関節を鳴らしながら、ゆっくりと上体を起こした。
「自分の部下を、無理やり爆弾にして……」
俺は折れてダラリと垂れ下がった右腕を無視し、左手で、先ほど落とした『漆黒の剣』の柄をガシッと掴んだ。
「こんな狭くて暗い場所で、一人の女の子を執拗に追い詰めやがって……! なにが遊戯盤だ。なにが駒だ……ッ!」
俺の中で、今まで必死に抑え込んでいた『何か』が、完全に決壊する音がした。
元の世界の平和な倫理観。人を殺してはいけないという不殺の甘さ。アンナがセレスの友人だからという遠慮。
それらすべてを、腹の底から湧き上がる『激しい怒り』の炎が、跡形もなく焼き尽くしていく。
「ジェードだか何だか知らねえが……人の命をオモチャにしてるようなクズが、俺の一番大事なものを奪えると思うなよォォォォォッ!!」
――――ゴォォォォォォォォォォッ!!
俺の絶叫と共に、広場の空気が爆発的に膨張した。
満身創痍で枯渇していたはずの魔力が、俺の純粋な『怒り』に呼応して、胸の奥底のから無尽蔵に溢れ出したのだ。
俺の全身を、凄まじい超高熱の赤い陽炎が包み込む。
周囲の石ころが熱に耐えきれずパチパチと弾け飛び、草が瞬時に炭化していく。
「な……!? その体で、まだこれほどの魔力が……!?」
初めて、アンナの無表情な顔に明確な『驚愕』の色が浮かんだ。
「セレス、下がっていてくれ」
「ショウト、様……」
「もう、遠慮はしねえ」
俺は左手一本で『漆黒の剣』を構え、揺らめく陽炎の中から真っ直ぐにアンナを睨みつける。
その瞳に宿っているのは、敵を完膚なきまでに叩き潰すという、冷徹で純粋な殺意の炎。
怒りに燃える異世界人の反撃が、今、幕を開けようとしていた。




