第34話:致命的な選択
「……ショウト様、もう……もう立たないでください……っ」
セレスの悲痛な声が、耳鳴りのする鼓膜にひどく遠く聞こえる。
彼女の腕の中で、俺は鉛のように重い身体を無理やり動かし、再び地面に足をついた。
全身の骨が軋み、千切れかけている筋肉が悲鳴を上げている。
口から垂れる血を乱暴に手の甲で拭い、右手に握りしめた『漆黒の剣』をゆっくりと構え直した。
「ハァッ……、ハァッ……」
視界が赤い。流血のせいか、それとも極度の疲労による幻覚か。
土煙の向こうから、黒装束を纏い、両手に鋭い短剣を逆手に構えたアンナが、音もなくこちらへ歩み寄ってくる。
「まだ立つ気力があるのですね。その執念には敬意を表しますが……無駄なことです。今の貴方は、立っているのがやっとの状態でしょう」
「……へっ、うるせーよ」
俺は荒い息を吐きながら、アンナを睨みつけた。
「お前たちの趣味の悪い花火のせいで……ちょっと、煤けちまっただけさ。アンナ、お前一人くらい余裕で……っ!」
そう口にした瞬間、膝がガクンと折れそうになる。
それを精神力だけで強引に支え、俺は前へと踏み出した。
「シッ!」
狙うはアンナの武器を持つ両腕。彼女を殺すつもりはない。
それでも、もう峰打ちなどという手加減は、甘えた考えは捨てる。
「――遅いですよ」
だが、俺の剣戟はアンナの短剣によってあっさりと弾かれた。
キンッ!
鋭い金属音が鳴り響き、手首に強烈な痺れが走る。
疲労でスピードが落ちているとはいえ、俺の剣を正面から受け止めるアンナの実力もまた、並の暗殺者のレベルを遥かに超えていた。
「ハァァァァッ!」
俺は弾かれた反動を利用し、身体を回転させて二撃目、三撃目と剣を振るう。
アンナはその連撃を、冷ややかな顔のまま最小限の動きで躱し、あるいは短剣で受け流していく。
(……くそっ、動きが見え……!)
集中力が途切れそうになるのを、奥歯を噛み砕くほどの力で耐える。
アンナの動きは洗練されているが、リリィさんのような『理不尽な強さ』はない。
俺の身体が万全であれば、難なく制圧できたはずの相手だ。
だが今は、少し剣を振るだけで肺が焼け焦げそうになり、疲労と失血で手足が鉛のように重い。
「どうしました、ショウトさま? さっきまでの勢いはどこへ行ったのですか?」
アンナが嘲笑うように呟き、左手の短剣で俺の脇腹を浅く切り裂いた。
「ガッ……!」
「貴方の剣は、迷いばかりだ。人を殺せない甘さ。そして……私に対する遠慮」
アンナの言葉に、俺は図星を突かれハッとした。
(遠慮……?)
「……ちげえよッ!」
俺は怒声と共に、アンナの短剣を弾き飛ばすほどの重い一撃を打ち込んだ。
アンナの体勢が、ほんのわずかに崩れる。
勝機だった。彼女の胸元が完全にガラ空きになっている。
ここに剣を突き立てれば……終わる。
(――ッ!)
その決定的な瞬間、俺の脳裏に1つの光景がフラッシュバックした。
『私に「呪い子」としての偏見を持たず、王宮の離宮でただ一人、友人として優しく接してくれていた……』
セレスが街で語っていた、彼女の孤独な王宮生活。
家族から遠ざけられ、誰からも愛されなかった彼女にとって、このアンナというメイドは、唯一の『光』だったはずなのだ。
今、アンナは冷酷な襲撃者として俺たちの命を狙っている。
それでも、もし俺がここでアンナを殺せば。
セレスは、唯一の友人を自分のために殺させてしまったという十字架を、一生背負うことになるのではないか?
俺が殺人を躊躇うのとは違う。
『セレスを悲しませたくない』という、致命的な迷い。
「……ッ!」
俺の手元が、ほんの数秒、無意識に鈍った。
致命傷となるはずだった剣の軌道がズレ、アンナの胸元を掠めるだけに終わる。
「……言ったでしょう。貴方は、甘いと」
俺のそのわずかな迷いを、アンナは決して見逃さなかった。
「しまッ――!」
体勢を立て直したアンナの左足が、俺の鳩尾を正確に、そして容赦なく蹴り上げた。
「ガハァッ……!?」
先ほどの爆発でダメージが蓄積していた内臓に鋭い痛みが走る。
呼吸が完全に詰まり、俺の身体がくの字に折れ曲がった。
「終わりです」
アンナは蹴り上げた足を下ろす反動を利用し、右手の短剣の柄尻で俺の右腕の関節を正確に打ち据えた。
「――ガアァァァァッ!!」
ゴキリという嫌な音と共に、剣を握っていた右腕から力が完全に抜け、『漆黒の剣』がカランと音を立てて地面に落ちる。
さらにアンナはガラ空きとなった俺の左肩に、左手の短剣を深々と突き立てた。
「ガ……、アァ……ッ」
「ショウト様ッ!!」
セレスの悲鳴が響く。
「……本当に、つまらない男ですね」
アンナは冷酷な瞳で俺を見下ろし、俺の肩に突き立てた短剣を、グリッとえぐるように捻った。
「グァァァァァッ!!」
「私が、セレスティーネさまの御友人を殺せないと、本当に思ったのですか? そのくだらない感傷が、貴方を死に至らしめるのです」
アンナはそのまま短剣を引き抜き、俺の胸元に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ガハッ……!」
俺の身体は後ろへと吹き飛ばされ、地面をゴロゴロと転がって、再びセレスの足元で仰向けに倒れ込んだ。
「ショ、ウト、様……っ! いやっ、血が……!」
セレスが半狂乱になって俺にすがりつく。
俺の左肩からは止めどなく血が溢れ、右腕はダラリと垂れ下がったまま動かない。呼吸をするたびに、肺から血の泡が漏れる。
(あ、あぁ……っ。俺のせいで……俺が、守るって言ったのに……)
俺は霞む視界の中で、セレスの涙でぐしゃぐしゃになった顔を見た。
ダメだ。ここで俺が倒れたら、セレスは……。
(……立て、俺……っ! 立てよォォッ!)
俺は血に塗れた左手で地面を掻き毟り、どうにかして体を起こそうともがいた。
しかし、限界をとうに超えていた肉体は、俺の意思に反してピクリとも身体を動かさない。
俺の血に塗れた短剣を手に、アンナがゆっくりと歩み寄ってくる。
その手に握る赤く濡れた短剣が、太陽の光を反射してギラリと鈍く光っていた。




