第29話:一筋の光
この暗闇の中をどれだけの時間、歩き続けただろうか。
時間の感覚はとうに麻痺し、ただ機械的に足を前に出し続けるだけの過酷な行軍。
喉の渇きはとうに限界を超え、息を吸い込むたびに肺がヤスリで削られるように痛む。
「……っ、ふぅ……」
前を歩くショウト様の背中が、時折グラリと大きく揺れる。
その度に私の心臓は跳ね上がるが、彼は決して立ち止まることなく、足を踏みとどまっては再び前を向く。
そして、私と繋いだ右手だけは、どれほど彼が疲労困憊であろうと、絶対に力を緩めることはなかった。
(ショウト、様……)
泥と汗と、魔物の灰にまみれた背中。
王宮の近衛騎士たちが纏うような、煌びやかな鎧なんて着ていない。
ただの異世界から迷い込んできた、私とそれほど年の変わらないただの少年だ。
けれど、今の私にとって彼の背中は……この世界のどんな強者よりも、大きく、そして何よりも温かく見えた。
『魔法を無効化できるって、めちゃくちゃ凄い才能じゃないか』
『お前がいるから、俺は強くいられるんだよ』
彼の言葉が、乾ききった私の心に何度も何度も甘い雫のように染み渡っていく。
私は生まれた時から、実の親からも、兄弟からも『触れてはならない呪い子』として遠ざけられてきた。
私の存在そのものが、王国にとっての罪であり、世界から拒絶された証だった。
けれど、彼は違った。
私の『呪い』を、誰かを守るための『盾』だと言ってくれた。
私が生きていることを、彼自身が生きる『理由』だと言ってくれた。
見ず知らずの、足手まといでしかない私を。
ただ「守る」と決めたからという、その底抜けのお人好しな善意だけで、自らの命を削ってまで連れてきてくれた。
「……ぁ……」
不意に、ショウト様の足がもつれ、彼が前へのめり込むように倒れかけた。
「ショウト様!」
私は咄嗟に繋いでいた彼の手を両手で強く引き寄せ、自分の肩でその身体を支える。
「わりっ……。ちょっと、石につまずいた……」
「無理です、もう限界です……! 少し、少しだけ休みましょう……っ」
私の肩に預けられた彼の身体は、信じられないほど熱かった。
魔力と体力を絞り尽くし、命の炎そのものが燃え尽きようとしているような、危険な熱さだ。
「ダメ、だ……。ここで座ったら、もう二度と……立てなくなる」
ショウト様は荒い息を吐きながら、私の肩からゆっくりと身を離し、再び自らの足で立った。
そして、私を安心させるように、泥だらけの顔でニカッと笑ってみせたのだ。
「大丈夫……風が、強くなってる。出口は、もうすぐそこだから……」
その強がりで、不器用で、けれどどこまでも真っ直ぐな笑顔を見た瞬間。
私の胸の奥底で、トクン、と。
今まで感じたことのない、ひどく甘くて、それでいて胸が締め付けられるような、強烈な『熱』が生まれた。
(ああ……そうか)
ずっと、暗い鳥籠の中で生きてきたから、分からなかった。
この感情に、どういう名前がついているのかすら、知らなかった。
ただの感謝じゃない。ただの恩義でもない。
私は、彼に触れていたい。
彼を守りたい。
彼が私に向けてくれるこの温かい瞳を、ずっと、私だけのものにしておきたい。
(私……ショウト様に、『恋』をしているんだ)
疲労と死の恐怖が隣り合わせの、この薄暗い洞窟の底で。
私は生まれて初めて、誰かを愛おしいと思う『恋』を自覚した。
彼は自分を異世界人だと言っていた。ならば、私は彼が生きてきた世界のことをもっと知りたい。
彼がこの先、どんな道を歩むにしても、私のこの魔法を消す『力』が彼の『最強の盾』になるのなら……私の命のすべてを懸けて、彼の側にいたい。
「セレス……? どうした、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
「……っ! い、いえ! 何でもありません!」
心配そうに私の顔を覗き込んでくるショウト様に、私は慌てて首を振った。
今は、こんな感情に浸っている場合ではない。ここを生きて抜け出し、彼に報いるためにも、私はしっかりと自分の足で歩かなければ。
「私は、大丈夫です。……行きましょう、ショウト様」
私は自ら彼の手を強く握り直す。
ショウト様は少し驚いたように目を丸くした後、嬉しそうに頷いた。
「ああ。……絶対に、2人で外に出るぞ」
決意を新たに再び歩き出した数分後……。
「……あれ?」
前を歩いていたショウト様が、不意にピタリと足を止めた。
「ショウト様?」
「セレス……見ろ。あそこ」
ショウト様が、震える指先で真っ直ぐ前を指差した。
長い長い、暗黒の通路の果て。
岩肌を照らしていた薄青い発光ゴケの光とは違う。
それは、真っ白で、力強くて、そしてどこまでも眩しい……『太陽の光』そのものだった。
「……出口……っ!」
「ああ……間違いない。外の光だ……!!」
そこからは、どちらからともなく駆け出していた。
限界を迎えていたはずの身体のどこにそんな力が残っていたのか。
繋いだ手を引き合いながら、私たちはその白く輝く一点を目指して、無我夢中で通路を走った。
光へと近づくにつれて、空気が劇的に変わっていくのが分かる。
洞窟特有のカビと埃の匂いが消え、土と、緑と、そして太陽に温められた『外の世界』の匂いが、肺の奥底まで流れ込んでくる。
「ハァッ……! ハァッ……!」
段々と光の輪郭が大きくなる。
岩のアーチを抜け、視界を白く染め上げるほどの眩い光のシャワーに、私たちは思わず目を細めた。
「――っ!」
そして、私たちはついに、その境界線を越えた。
「……あぁ……っ」
外の世界だ。
見上げるほど高く広がる、どこまでも青い空。
周囲を囲むのは、生命力に溢れた深い森の木々。頬を撫でる風は、洞窟の冷たい風とは違う、初夏の温もりを帯びていた。
私たちは、生きてこの洞窟を抜け出したのだ。
「やった……。出られた……っ、出られたぞ、セレス!!」
ショウト様は歓喜の声を上げ、私の方を振り返った。
その顔を見た瞬間、私の中に張り詰めていた緊張の糸が、プツンと音を立てて切れた。
「ショウト、様……っ」
「うおっと!?」
私は堪えきれず、彼へすがりつくようにしてその胸に飛び込んでいた。
そのまま二人の足がもつれ、私たちは柔らかな草の絨毯の上へと、もつれ合うようにして倒れ込んだ。
「あはは……っ、危ないだろ、セレス」
「よかった……っ。生きて……生きて、ショウト様と……っ!」
仰向けに倒れたショウト様の胸に顔を埋めたまま、私は子供のように声を上げて泣いた。
ショウト様は苦笑しながらも、優しく私の背中を撫でてくれている。
(生きて、外に出られた……!)
その圧倒的な安堵感と、隣で確かに脈打つ彼の心臓の音が、私にこの上ない幸福を与えてくれていた。
「――ふふ。本当に、生きて出口まで辿り着くなんて。大したものですね」
――不意に。
温かな風に混じって、私たちの頭上から、ひどく冷たく、そして聞き覚えのある女性の声が降ってきた。




