第28話:溢れ出る絶望
どこまでも続く、代わり映えのない薄暗い岩肌の通路。
ゴブリンの群れから逃れ、安全な場所まで辿り着いた俺たちは、冷たい岩壁に背中を預けて座り込んでいた。
「ハァ……、ハァ……」
「…………」
俺とセレスの間に無言の時間が流れる。
戦闘の興奮が冷めるにつれ、ごまかしの利かなくなった『肉体の限界』が、俺たち二人に重くのしかかっていた。
一番の死活問題は、『水』だった。
ただでさえ連続の戦闘と全力疾走で大量の汗をかいたのだ。喉は砂漠のようにカラカラに乾き、唾を飲み込むことすら痛みを伴う。
自然の洞窟なら地下水脈や水溜まりの1つでもありそうなものだが、この洞窟の壁は不気味なほどに乾ききっており、水滴ひとつ垂れてこない。
「……セレス、大丈夫か。気分は悪くないか?」
俺はひび割れた唇を舐め、なるべく平坦な声を装って隣の少女に声をかけた。
「は、はい……。私は、大丈夫です」
セレスは気丈に頷いたが、その顔色は発光ゴケの光を差し引いても青白く、呼吸も浅い。
王宮の奥深くで大切に、あるいは隔離されて育ってきた王女様だ。
こんな劣悪な環境で何時間も歩き続け、命の危険に晒されたことなど、これまでの人生で一度もなかったはずだ。
その肉体の疲労は、すでに限界をとうに超えているだろう。
(食料もない。水もない。……どうする)
俺は自分の手のひらを見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
クレスさんの座学で教わった通りだった。この世界の魔物は、倒されると魔石を残して灰になってしまう。
元の世界で読んだサバイバル漫画のように、『野生動物の肉を焼いて食う』あるいは『血をすする』といった現地調達は不可能なのだ。
俺に水属性の適性があれば、魔法で飲み水を作り出すこともできたかもしれない。
だが、俺の魔力は火属性へ極端に偏りすぎており、水はおろか風すらも一切生み出せない。
「……ッ」
不意に、俺の右腕の筋肉が痙攣するようにピクリと跳ねた。
連続した戦闘と、長時間の『身体強化』の維持。俺自身の魔力と体力も、すでに底をつきかけていた。
その俺の腕の微かな震えを、隣に座っていたセレスは見逃さなかった。
「……ショウト、様」
セレスが、絞り出すような、ひどく震える声を上げた。
「ごめんなさい……。本当に、ごめんなさい……っ」
「セレス? どうした、どこか痛むのか?」
「違いますっ……! 私のせいです。私が、何の力もない『呪い子』のせいで……ショウト様を、こんな目に……!」
彼女は両手で自分の顔を覆い、ポロポロと涙をこぼし始めた。
その細い肩が、嗚咽と共に激しく震えている。
「私に魔力が使えれば……水を出して、ショウト様の喉を潤すことができたのに。私に剣の腕があれば、ショウト様ばかりに戦わせて、こんなにボロボロにさせることはなかったのに……っ!」
「セレス……」
「私は、ショウト様の足を引っ張るだけの重荷です。このまま私を連れていけば……いつか必ず、ショウト様まで倒れてしまいます……っ!」
極度の疲労と渇きが、彼女の心に封じ込めていた自己嫌悪を堰を切ったように溢れさせたのだ。
彼女はずっと、冷たい王宮の中で『自分は価値のない存在だ』と刷り込まれて生きてきた。
だからこそ、自分のせいで俺が苦しんでいるという事実が、彼女の心を何よりも苛んでいたのだ。
「……お願い、します。ショウト様」
セレスは顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、俺を真っ直ぐに見つめた。
「私を、ここに置いて……一人で逃げてください。ショウト様お一人なら、魔物を振り切って、きっとすぐに出口を見つけられるはずです。……私のことは、もう――」
「バカ言え」
俺は彼女の言葉を遮り、ドンッと乱暴に彼女の隣の岩壁を手で叩いた。
ビクッと肩を跳ねさせるセレスに向かって、俺は深くため息を吐き出し、そして、努めて明るく、ニカッと笑いかけた。
「誰がセレスを置いていくかよ。俺はあの時、『なにがあってもセレスを守る』って決めたんだ。男が一度口にした約束を、途中で投げ出せるかっての」
「で、ですが! このままでは、ショウト様が……!」
「俺がボロボロなのは、セレスのせいじゃない。俺がまだまだ未熟なだけだよ」
俺は痛む右腕をぶらブラと振り、大げさに肩をすくめてみせた。
「それにさ。セレスは自分のことを『足を引っ張る重荷』なんて言ってるけど……それは逆だよ」
「逆……?」
「ああ。俺はセレスが隣にいてくれて本当に助かってる。……セレスがいなかったら、俺は今頃、とっくに心が折れてこの場所から脱出するのを諦めていたかもしれない」
そう、それは紛れもない俺の本心だった。
突然こんな不気味な暗闇の底に放り出されて、化け物の群れに襲われて。
もし俺がたった一人だったら、恐怖と孤独に押し潰されて、どこかで立ち止まってしまっていただろう。
「セレスを守らなきゃいけないって思えるから、俺は無理をしてでも剣を振れるし、前に進むことができるんだ。……セレスがいるから、俺は強くいられるんだよ」
俺は彼女の頭にポンと手を乗せ、クシャクシャと優しく撫でた。
「だから、セレスは俺の重荷なんかじゃない。俺が生き残るための、一番の『理由』だ」
「ショウト、様……」
セレスの碧眼が、光を宿して見開かれた。
彼女の瞳から、再びポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
それは先ほどまでの絶望と自己嫌悪の涙とは違う、もっと温かくて、心の底から救われたような涙だった。
「……ひぐっ、うぅぅ……っ」
「ほら、泣くな。水分が勿体ないぞ」
「はい……っ、はい……っ」
俺の冗談めかした言葉に、セレスは何度も何度も頷きながら、両手で必死に涙を拭った。
(……限界なのは、お互い様だ)
俺は壁から背中を離し、ゆっくりと立ち上がった。
足は鉛のように重いが、不思議と心は軽かった。
守るべき相手がいるという事実が、空っぽになりかけていた身体の奥底から、もう一度熱い力を引き出してくれる。
「さあ、行こう。風の流れが少しずつだけど強くなってる。出口は絶対にこの先にある」
俺が右手を差し出すと、セレスは今までで一番強く、俺の手をしっかりと握り返してきた。
「はい。……どこまでも、お供いたします」
その時、彼女が俺に向けた微笑みは、薄暗いダンジョンの底にあっても、ハッとするほど美しく、可憐だった。
泥だらけで、服もボロボロで、身も心も限界のはずなのに。
その瞳の奥には、俺への『信頼』と、そして……彼女自身もまだ明確には気づいていない、確かな『熱』が灯り始めていた。
俺たちは繋いだ手を決して離さず、かすかな風が吹いてくる闇の奥へと、再び重い足を踏み出した。




