第20話:牛頭の巨獣
肌を刺すような冷気と、ひどく淀んだカビの匂い。どこからか聞こえてくる水滴の音が、不気味なほどに空間を大きく反響していた。
「……セレス、立てるか?」
俺は痛む背中を庇いながら立ち上がり、傍で倒れていたセレスに問いかけた。
「は、はい。ありがとうございます……」
セレスは俺の手を取り、恐る恐る立ち上がって周囲を見渡した。
完全な暗闇というわけではない。壁のあちこちに群生している名も知れぬ発光ゴケが、空間全体を薄青く、そして不気味に照らし出している。
そこは、人工的に切り出された巨大な石の通路だった。
天井は高く、幅も馬車が三台は並んで走れそうなほど広い。だが、そこから感じられるのは人の営みの気配ではなく、ただひたすらに濃密な『死』と『暴力』の気配だけだった。
「アンナたちが使用した魔道具……。あの魔法陣は、私たちをこの場所へと転移させるものだったのですね」
セレスが、自らの両腕を抱きしめるようにして震える声で言った。
彼女の顔は蒼白だ。一番信頼していた友人に裏切られ、さらに得体の知れない場所へと突き落とされたのだ。無理もないだろう。
「……アンナは、あの集団は、君をどうするつもりだったんだ」
「分かりません……。ただ、私の存在を忌まわしく思う何者かが……このまま誰にも知られずに、この場で魔物に殺させようとしたのかも……」
「そんな回りくどいことするか? あの場にはアンナと暗殺者が5人もいたんだぞ。俺がセレスを守っていたとはいえ、殺すだけならあそこでやれたはずだ」
俺の指摘に、セレスはハッとして顔を上げた。
確かにそうだ。アンナはあの時、「セレス様は生け捕りに」と明確に指示を出していた。
そして、わざわざこの未知の空間へと俺達を転移させた。それはつまり、彼女をここで『生かしたまま』何かをするつもりか、あるいは……
――ズシンッ。
不意に俺たちの思考を物理的に断ち切るような、重く、地響きを伴う足音が通路の奥から響いてきた。
「な、なんでしょうか、この音……?」
「セレス、俺の後ろに!」
俺は瞬時にセレスを背後に庇い、足音がする通路の奥、暗闇の向こうへと鋭い視線を向けた。
ズシンッ……ズシンッ……。
足音は段々とこちらに向かってくる。足音からして恐らく数は少ない、ただその一歩一歩が桁外れに重いのだ。
発光ゴケの薄暗い光の中に、ゆっくりと『それ』が姿を現した。
「な……っ」
背後でセレスが息を呑む音が聞こえた。俺もまた、思わず目を細める。
現れたのは、見上げるほど巨大な異形の怪物だった。
身長は三メートルを優に超えている。筋骨隆々という言葉すら生温い、丸太のように太く発達した腕と脚。
そして、その巨大な人間の肉体の上に乗っているのは、荒い鼻息を吐き出す赤黒い『牛の頭部』だった。
――ミノタウロス。
元の世界で遊んだゲームやファンタジー小説でお馴染みの、あの牛頭の巨獣だ。
「グルルルルォォォォッ……!!」
こちらを視認した瞬間、ミノタウロスは耳をつんざくような鼓膜を震わせる咆哮を上げた。
その手には、大木の幹をそのまま削り出したような、無骨で巨大な棍棒が握られている。
(ひと息つく暇もなしかよ……!)
咆哮と同時だった。
ミノタウロスは、その巨体からは想像もつかないほどの爆発的な速度で、こちらへ向かって突進してきたのだ。
蹄のついた足が石の床を砕き、猛烈な突風を巻き起こしながら迫り来る。
「ひっ……!」
「チィッ!」
迎撃方法を練る時間すらない。避けるスペースはあるが、俺がここで横に跳べば、背後にいるセレスが完全に無防備な状態であの巨獣の突進を食らうことになる。
「セレス、ごめん!」
俺は背後にいたセレスの肩を掴み、力任せに壁際へと大きく突き飛ばした。
「きゃあっ!?」
セレスが床を転がるのと、ミノタウロスが眼前に迫るのは同時だった。
俺は全身の魔力を一気に爆発させ、『身体強化』を最大出力で全身の筋肉に駆け巡らせる。
右手に構えていた『漆黒の剣』を振り上げ、迫り来る丸太のような巨大棍棒に対し、下からかち上げるようにして刃を叩きつけた。
――ギガァァァァンッ!!
金属の塊同士が正面から激突したような、凄まじい轟音がダンジョンに響き渡る。
「ぐっ……、うぉぉぉぉっ!!」
剣を通して伝わってくる、ミノタウロスの圧倒的なの質量と暴力的な腕力。
俺の足元の石床がメキメキと音を立てて陥没し、衝撃を殺しきれずに靴底が後方へとズリズリと滑っていく。
「ショウト様ッ!!」
壁際に倒れ込んだセレスが、悲鳴のような声を上げた。
俺は奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばりながら、必死に剣を押し返した。
(重っ……てぇな、クソッ……!)
あの暗殺者五人を相手にした時とはまるで次元が違う。
純粋な『力』と『質量』の暴力。
俺は腕の筋肉が千切れそうになるのを耐え、魔力で無理やり身体を強化しながら、ミノタウロスの血走った巨大な眼球を真正面から睨み返した。




