第19話:【幕間】狂気の洗礼
王都郊外の深い森の奥にひっそりと佇む廃教会。
その地下深くに隠された不気味な地下室には、むせ返るような血の匂いと、祭壇から溢れ出す禍々しい気配が濃密に立ち込めていた。
張り詰めた冷たい空気の中、一人の男の悲痛な命乞いが響き渡る。
「お、お許しを! ジェード様、私はただ、我らが組織のために……っ!」
両脇を信徒に固められ、冷たい石の床に引きずり出されたローブの男。
彼は目標であるセレスを捕獲する任務において、焦りのあまり独断でジェードから賜った『宝珠』を使用し、結果として彼女とイレギュラーの少年をダンジョンへと転移させてしまった襲撃部隊のリーダーであった。
「ええ、分かっていますよ。貴方の忠誠心は本物です。貴方のその行いが、あの方を未知の暗闇という最高の絶望へと突き落としてくれたのですから」
白髪の神父ジェードは、まるで怯える子供をあやすかのように、優雅で、そしてひどく冷酷な微笑みを浮かべた。
「だからこそ、貴方のその尊い命は、我らが主を迎えるための『極上の供物』として捧げられるのです。……さあ、歓喜なさい。これ以上の慈悲はありませんよ」
ジェードがゆっくりと右手を男の顔に乗せた瞬間。
ジェードの身体から底知れぬ漆黒の魔力が溢れ出し、まるで生きているかの如く蠢き右手を伝い男へと襲いかかった。
「ひっ!? お、お許しください!! お許しください!!」
地下室に、大の男が泣いて許しを請う声をが響く。
汚泥のようなどす黒い魔力が男の全身に絡みつき、容赦なくその肉体の中に侵入していく。
男を抑えつけていた二人の信徒は、慌てて彼から手を離し、その惨たらしい光景を前に恍惚とした表情で祈りを捧げ始めた。
「い、いやだ、いやだぁぁっ……!!」
その時、ジェードの魔力に侵食された男の肉体に、異様な変化が起こる。
既にボロボロの衣服の隙間から、皮膚に沿うように無数の紋様がドクドクと広がり始める。その紋様がやがて全身に回ったのをと同時に、ジェードが大仰な身振りで立ち上がる。
「さあ! 我らが主に捧げる『美しき花』となりなさい!」
やがて、男の絶叫が完全に途絶えると同時に、純白の閃光が地下室を染め上げる。
男の肉体そのものが光を発しながら膨れ上がり、不気味なほどに『美しい』純白の爆発がジェードを巻き込んだ。
轟音と爆風が荒れ狂い、祭壇の赤い布が激しく煽られる。
やがて、爆風が収まり煙が晴れると、その爆発の中心にいたはずのジェードには、傷一つ、煤一つついていなかった。
石畳の上には、かつて人間だった赤黒い肉片と、ボロボロになった灰色のローブだけが残されていた。
「ああ……素晴らしい。恐怖と苦痛に歪んだ魂の輝き……これこそが、至高の供物です」
ジェードは男の残骸を一瞥すらせず、空中に漂う濃密な魔力を両手で愛おしそうに撫でた。そして、静かに床に平伏し続けているアンナへと、狂気を孕んだ視線を向ける。
「さあ、アンナ。顔を上げなさい」
「……はっ」
アンナがゆっくりと顔を上げる。彼女の茶色の瞳は、目の前で行われた凄惨な処刑を前にしても、微かな動揺すら見せていなかった。
「貴女にはこれから、例のダンジョンへ向かい、絶望に熟した『器』の回収と、目障りなイレギュラーの排除を行ってもらいます。……しかし、あの少年は未知の力を持つという。確実に任務を完遂するためには、貴女のその肉体を、さらに上の次元へと昇華させる必要があるでしょう」
ジェードが両手を掲げると、男に纏わせた魔力とは比較にならないほど濃密で、大量の魔力を、アンナの頭上へと集束していく。
「これより、貴女に洗礼を授けます。我らが主の『使徒』として、その身に余すことなく力を受け入れなさい」
ジェードの宣告と共に、黒い泥のような魔力の濁流が、滝のようにアンナの華奢な身体へと降り注いだ。
「……ッ!!」
アンナの口から、声にならない短い悲鳴が漏れた。
それは、先ほどの男が受けた侵食とは比べ物にならないほど、高密度で暴力的な魔力の奔流だった。
彼女の全身の細胞が一度破壊され、瞬時に強靭なものへと再構築されていく。筋肉の繊維が捻じ切れ、神経が限界を超えて焼き切れるほどの激痛が、彼女の脳髄を容赦なく蹂躙した。
(か、身体が……身体が、壊れる……っ!)
あまりの激痛に、アンナは膝から崩れ落ちそうになる。だが、彼女はギリッと唇から血が出るほど強く歯を食いしばり、自らの足で立ち続けることを選んだ。
激痛で意識が白濁していく中、彼女の胸の奥底に、ある記憶がフラッシュバックする。
夕暮れの屋台。温かい料理。そして、自分に向けて無邪気に笑いかけてくれた、あの美しくも孤独な少女の顔――セレスの笑顔。
『アンナ! 見て、すごく綺麗……!』
自分を信じてくれた、たった一人の存在。
その温かい記憶が、激痛の中でほんの一瞬だけ、アンナの心に『罪悪感』や『後悔』という人間らしい感情を呼び起こそうとした。
(……いいえ。私に、心など必要ありません)
アンナは、胸の奥底に芽生えかけたその温かい光を、自らの強靭な意思で、冷徹な漆黒の闇へと沈めた。
私は人形。私は刃。ただ目的を果たすためだけに存在する、血の通わない道具。
その氷のような覚悟が、荒れ狂う瘴気を完全にねじ伏せ、彼女の肉体へと定着させていく。
「おお……!」
ジェードが、歓喜に満ちた声を上げた。
やがて魔力の渦が晴れると、そこには、以前とは全く異なる異様な重圧を放つアンナの姿があった。
彼女の全身を包み込む魔力は、もはや人間のそれではない。
淀んだ泥のように黒く、そして底冷えするような死の気配を纏った、完全なる怪物の波動だった。
彼女がゆっくりと目を開く。
かつてセレスを優しく見つめていた穏やかな茶色の瞳は、今は深い漆黒に染まり、一切の光を反射しない無機質なガラス玉のようになっていた。
「……素晴らしい。見事な適応力です」
ジェードは恍惚とした表情で、新たなる『使徒』の誕生を称賛した。
「気分の程はいかがですか、アンナ」
「……問題ありません、ジェード様」
アンナは、自身の両手を静かに見つめ、淡々と答えた。声に抑揚はなく、完全に感情が死滅している。
「魔力の出力、身体の修復機能、共に以前の数倍に達しています。これならば、あのイレギュラーが相手でも、決して遅れを取ることはありません」
「頼もしいですね。さあ、行きなさい、我が愛しき使徒よ。絶望に泣き濡れるあの方を、我らの元へ」
「御意に」
アンナは静かに一礼すると、冷たい石畳を蹴り、音もなく地下室を抜け出していった。
一切の迷いを持たない、完全なる殺戮の刃となって。
残されたジェードは、祭壇の赤黒い闇を見つめながら、これから訪れるであろう破滅と絶望の喜劇を想像し、いつまでも狂気の笑い声を響かせていたのだった。




